徳童往還造出工事
巡見使
塩足年代記に、宝永七年(1710)閏八月、「当国巡見御上使御通、小田切靱負様、土屋数馬様、永井監物様」とあります。
この巡見御上使とは、どんな役目の人でしょうか。福岡県百科事典に次のようにあります。
徳川幕府は、将軍が代替わりする毎に、三人の巡見使を派遣して全国各地の政情・民情を視察させた。巡見使は供を加えると総勢百人に及んだ。
九州の巡検使の順路は、大阪から船で若松に着き、豊前藩・豊後藩・福岡藩・肥前藩を視察、約三ヶ月後に榎津に上陸し、柳川藩・肥後藩・薩摩藩・日向藩を視察して引き
返し、久留米藩・秋月藩を視察して、若松から船で帰っている。
その間約五ヶ月、藩では早くから御用掛を設けて、受け入れ態勢を整えた。
久留米藩は天保九年(1838)の巡見の場合・予算一万両を計上して、郡内の案内や諸雑用は、大庄屋・庄屋以下村役人が当たり・平伏の仕方から応対まで事前に練習し・石高や免率・村数・人口などは、郡奉行が指示した通りに暗記させた。
巡見使の中には、長旅の疲れで死亡する場合もあり、迎える藩にとっても、巡見する一行に取っても大変な制度であった。
さて今回の巡見は、宝永五年(1708)五代将軍徳川綱吉が死亡して、家宣が六代将軍就任によるもので、新将軍家宣は新井白石を重用して、世の中を元禄の華美から、質実の世に改めようとした時代でした。
往還造出工事
徳童往還は、筑後と豊後を結ぶ日田往還の、久留米と日田の中間で、人と物の往来が盛んでした。
三浦文書に、
宝永六年(1709)六月、田主丸村平六が大庄屋を免ぜられ、跡役に徳童村八兵衛が仰せ付けられる。
宝永七年(1710)一月、徳童往還造出のため、組夫にて地引きはじまる。
正徳三年(1713)八月、徳童村八兵衛が大庄屋を退役、跡役に再び田主丸村平六が仰せ付けられる。
こののように徳童往還の工事期間中、徳童村の八兵衛が大庄屋を勤めます。
久留米藩庁が徳童往還造出工事に、大庄屋を変更して、組夫を使って施工している事は、巡見使が当地を通過の際、徳童を領内の報告の場所か、または巡見使の休憩所に、予定していたのではないかと思います。
これより先の寛文四年(1664)には、当地農民が願望した大石水道が完成して、村中に農業の潅漑用水が満々と流れていました。
工事は「三浦文書」にある通り、一月から組夫によって行なわれて、道路の地上げ造成整地が始まり、道路片側に生活用の小水路が流れ、潅漑用の水路を石垣で護岸し、橋は石橋に架け替えて、道標を立てます。
この道路改修によって、徳童は道幅が広く家並の整った、畠往還沿いの村になりました。
藩政時代、藩主や重役が領内を巡視の際、途中休憩する所を「お茶屋」と呼びました。徳童では往還筋を「茶屋」と呼び、坂口から下を「むら」と呼んでいます。この事はあるとき徳童が、藩主の休憩所に使われた名残りかも知れません。