轟村政の助役は、栗原孝介が昭和三十四年ま
で務め、つづいて収入役であった古川謙一郎が
その後任を務めた。収入役の後任には、若杉一
が務めている。
村役場の機構が現在のような課制になったの
は、昭和三十五年九月一日であり、それ以前は
職制別に主任が置かれていた。
昭和二十年代前半は、職員十七名程度であっ たが、当時の主な職制は次のとおりであった。
1. 庶務係(総務、予算、議会、その他) 2. 戸籍係(戸籍、異動証明の発行等) 3. 学事係(教育関係全般) 4. 厚生係(復員軍人、海外引揚者関係) 5. 衛生係(保健衛生) 6. 税務係(税務、地籍) 7. 勧業係(農林業、米の供出、農地委員会) 8. 土木係(土木、道路愛護) 9. 配給係(米をはじめ諸物資の配給) 10.収入役室(金銭の出納と決算、消耗品備品等の管理)
その後地方自治法等の改正にもとづき選挙管
理委員会(昭和二十五年二月)、農地委員会が
農地調整委員会、農業改良委員会と統合して農
業委員会(昭和二十六年七月)となった。また公
平委員会、固定資産評価審査委員会(昭和二十
六年八月)監査委員会(昭和二十六年十月)教
育委員会(昭和二十七年十一月)とそれぞれ委
員会制度が導入され、矢部村役場の体系は、ほ
ぼ確立された。
昭和二十年代は敗戦の混乱の中で食糧難、物
資難、インフレーションなどによるどん底の生
活の時代であったが、昭和三十年代前半になる
と民生も多少安定し、福祉面の充実が図られる
ことになった。国民皆保険の方針によって、昭
和三十年十二月から国民健康保険業務が開始さ
れ、昭和三十四年十一月には国民年金業務や社
会福祉業務などの増大などにより、役場は急速
に業務量が増大していった。そこで、昭和二十
五年九月一日役場の機構改革が行われ、現在の
課制がしかれることになったのである。
昭和三十六年四月に日向神ダムの完成に伴い
観光課を設置し、日向神観光として遊覧船事業
を開始している。開業して二年ほどは業績が順
調であったが、その後業績不振におちいり、昭
和三十九年九月一日業務は中止され、観光課も
閉鎖されることになった。
轟村政は、永年にわたる立憲君主制が敗戦と
いう結末を経て、新生日本として民主主義によ
る日本国憲法および地方自治法の制定がなされ
る中で誕生したのであるが、敗戦の痛手と政局
の不安をだれしも感じていたこととて、このよ
うな時期に、民生の安定、産業の復興を図って
いかなければならなかったことは、想像を絶す
る困難が伴ったであろうと思われる。
轟村政の業績の中で特筆すべき事項について
述べると次のとおりである。
昭和二十二年三月三十一日、教育基本法、 学校教育法が公布され、四月一日六・三・三制の 学制が施行された。それに伴い、新制矢部村立 矢部中学校が発足した。(矢部村の教育参照)
矢部村の歴史参照
町村合併促進法(昭和二十八年九月一日法律
第二五八号)の成立にさきがけ、県は二十四年
のシャープ勧告を契機として国の町村合併に関
する方針が明らかにされるにおよび、県下町村
の一体的な規模(人口八○○○人)の適正化を
図るため、昭和二十八年四月十六日地方事務所
に対して管下町村の合併計画案の提出を求めた。
各地方事務所においては町村の地勢、人口密度、
経済事情、その他の事情を勘案して町村合併試
案が作成された。
合併試案は表五のとおりであった。
この県試案に基づき、矢部村と隣村大渕村の
合併についての協議が何回も持たれたが、矢部
村民の猛烈な合併反対運動が起こり、県や関係
者の熱心な説得にもかかわらず、協議は決裂状
態となり打ち切らざるを得なかった。反対の理
由として、住民の純粋な愛郷心や広大な村有林
を有している矢部村としては合併吸収されると
いう危機感があった。たまたま日向神ダムの建
設が計画されていて、ダムの補償問題が住民の
当面の関心事となっていたが、補償問題がかな
らずしも住民の意に沿うような進展をしていな
かったため、町村合併問題は住民感情の格好の
はけ口となった感があった。
その後においても住民の町村合併反対の声は
根強く、村当局が冷静にこの問題を処理するこ
とに努力したにもかかわらず、事態は一向に進
展しなかった。むしろ昭和三十二年二月末の合
併研究委員会や議会協議会、拡大合併研究会に
おいては合併を回避する方向を打ち出すととも
に、県や審議会に働きかけることを決議した。
このような経緯により矢部村は規模が適正で
はないが、自然や地理的条件を勘案して合併不
可能町村として計画から除外する旨の通知を知
事から受けたのである。
なお、大渕村にあっては、昭和三十二年三月 二十五日、黒木町との合併勧告がなされて、黒 木町に合併した。
日向神ダムと蹴洞岩の下を |
福岡県営日向神ダムは福岡県が工期八年をか
け、当時約四十八億円の巨費を投じて建設され
た県下一の多目的ダムである。
ダム建設は、地域住民の生活権の問題であり
矢部村にとっても村の盛衰をかける大問題で
あったので、村議会、村民、水没地域住民の賛
成・反対あるいはダム誘致の条件等激しい論議
が交わされたが、最終的には条件提示のうえ終
結し、昭和三十五年に完工した。
(矢部村の歴史参照)