若杉村政の助役は、当初不在であった。昭和
五十二年七月一日、当時収入役であった斉藤辰
喜が助役と収入役を兼任したが、昭和五十七年
十二月辞任し、助役、収入役不在のまま収入役
は職務代理者が努めた。
若杉村政は当初江田村政を踏襲したが、昭和
五十三年四月表四のとおり機構を改革した。
若杉村政は、昭和四十八年の第一次オイル・
ショックによる日本経済の低成長期に入ったと
きの誕生であった。また、昭和五十四年の第二
次オイル・ショックを経て、日本経済がようや
く安定成長と呼ばれる時代の就任であった。国
の高度経済成長を契機とした社会情勢の変化は、
山村である矢部村にとっては、逆に苦難の時期
でもあった。
昭和四十六年には、米の過剰米対策として減
反政策が実施されて年々減反面積が増加される
ことになり、米作農家は転作を余儀なくされて
いった。過疎化が進行するとともに、農家の形
態が農林業主体から兼業主体へと収入源を求め
るようになったのは、時代の流れとして止むを
得ない現象であった。
このような状況の中で、若杉村政は矢部村の
雇用促進のための特産物開発と老人福祉の充実
に情熱を注いだ。また制度事業として昭和五十
一年中核林業振興地域の指定、昭和五十二年四
月第二次林業構造追加事業の指定、昭和五十七
年四月第三期山村振興事業の指定を受け、これ
らの事業の遂行に精力的に取り組んできた。
若杉文夫村政の主な事業は次のとおりである。
高度経済成長の谷間に沈み、過疎に悩み所得
の格差に呻吟する矢部村を楽土にし、伝統ある
矢部村をいかに浮揚させるかは、村民のひとし
く模索するところであり、江田村政にとっても
大きな課題であった。
そこで、九州大学による「村造り総合診断」
の結果、村民の総合的社会教育の場として基幹
集落センター(おおそま)が、第二次山村振興
事業の一環として国、県の多大な財政援助と指
導により昭和五十年三月に完成した。
敷地面積約二千四百八十九平方メートル、建
物面積七百八平方メートル、総工費一億二百五
十万円をかけたこの白亜の殿堂は、村づくりの
ために住民各層、各種団体の研修、会議、催し
などに大いに活用され、村民の教育、文化向上
に役立っている。
老人憩いの家 |
矢部村の高齢化率は、現在二三・九パーセン
トに及び、国、県の平均値の二倍強の高い数値
を示し、県下一の高齢化社会を迎えている。高
齢化対策は、村にとって緊急かつ最重要な課題
のひとつである。そこで、村としていろいろな
施策を行っているが、老人が健康で生き甲斐と
楽しみを求めるために、昭和五十一年四月、基
幹集落センターに併設して老人憩いの家を建設
した。研修や会議のほか、週二回(火・金)の
温泉の日には、一日約二十名の老人が慰安、交
流の場として活用している。
矢部村には、内科、外科の医院は三ヶ所あっ
たが、歯科医はなく、村民は黒木まで治療に下
らなければならず、不便をかこっていた。そこ
で、昭和五十五年に、基幹集落センターの別棟
に歯科診療所を設けた。ところが、村内に歯科
医を依頼する適当な人がおらず、八方交渉して
郷原哲明氏を相談することができた。以来、今
日まで五代目で村出身の木下誠二氏が現在診療
に当っており、村民に喜ばれている。
村内に住むおおむね六十五歳以上の生活上支
障のある不自由な人や寝たきり老人を訪問し、
いろいろな介護や奉仕をするため、五十一年五
月から一名の家庭奉仕員を配置した。
高齢者生産活動センター |
過疎化に伴う山村住民の老齢化現象に対処し
て国土庁が昭和五十一年度から推進している
「高齢者生産活動センター建設モデル事業」を
昭和五十二、五十三年度の継続事業として、九
州で初めて当村に誘致、建設された。現在の受
身の福祉から自立の研修・生産活動へと積極的
に取り組んでいくことが老人の生き甲斐対策と
して血の通った施策であり、この施設を拠点と
して高齢者が働く喜びと生き甲斐を享受し、老
人の連帯感を醸成しながら次元の高い老人福祉
を推進していくことを目的とした施設である。
敷地面積三千五百四十平方メートル、建築面
積七百七十八平方メートル(一階)、九十三平
方メートル(地階)、計八百七十二平方メート
ルの鉄筋コンクリート造りで、総工費一億四千
万円を投じている。
生産施設は、味噌、梅漬け、らっきょう、こ
んにゃく、たけのこ加工などの農林産物食品加
工としゃくなげなどの花木栽培、花台、床飾、
応接台などの木工芸品加工の三部門があり、活
発な生産活動が行われている。
世は情報化社会である。村おこしは矢部村を
知ることである。その情報発信のもととして、
昭和五十六年五月、第一号が発刊され、現在第
百七号に至っている。村政、産業、経済、文化、
教育と広範にわたって情報を提供するとともに、
広く住民の意見を掲載したりして、親しみ易い
広報「やべ」が発刊されつづけている。
良質のお茶づくりをめざし技術の向上に資す
るため、過疎対策事業により中村に建設された。
建物はスレート葺き一部二階建て二百九十五平
方メートルで、製茶機械三十五キログラム一ラ
インが設置されている。工事費は、二千四百九
十九万円で、五十八年三月に完工した。
矢部産茶の銘柄を高めるため、以前から茶園
の改植、技術の向上に力を入れていたが、この
施設の建設により一段と良質茶の生産地として
評価されるようになった。
昭和五十九年、第三十八回全国お茶祭りに待
望の農林大臣賞受賞者を出すまでに至り、その
後毎年優秀な成績を収め、矢部茶の名声を全国
に広めるまでになった。