若杉繁喜村政の助役は当初不在であったが、
昭和六十一年一月、県出向の梅野正喜、昭和六
十二年から平成二年まで伊藤信勝(県出向)、
さらに平成三年度から中原潤一郎(県出向)が務
め現在に至っている。
収入役には、昭和五十九年一月鹿田久吉が務
め、現在に至っている。
若杉村政の誕生は、第二次臨時行政調査会(土
光会長)の最終答申がなされ、国、地方を通じ
た行政制度・組織の改革・見直しなどによる大
胆な歳出削減が迫られた時期であり、公務員の
総人件費抑制などの意見書が出されたいわゆる
「増税なき財政再建」である。
矢部においても、昭和六十一年八月、行政改
革推進委員会が設置され、六十二年三月村長の
諮問に応えて行政機構改革の答申がなされた。
そこで答申の内容を分析、検討を重ね、昭和六
十三年五月、新庁舎建設、移転を機会に役場の
機構改革が表一のとおり実行された。
若杉村政は、前述の行政改革と同時に、現下
の過疎化がなお進行する中で、村の活性化にど
のように対応すべきかに全精力を傾注した。こ
うしたことが県からの助役出向要請としてあら
われたのである。また、前々村長以来、学校、
役場、体育館などの建設が、代々村民の大きな
願望であり、村の懸案であったが、その機が熟
し、かつてない公共施設の建設ラッシュを迎え
た。
若杉村政の主な事業は、次のとおりである。
矢部小学校は、教育の先覚者江碕済の奔走に
より明治五年に創立された歴史と伝統のある学
校である。昭和十六年の矢部大火のあと、元の
校地に改築されたが、その五十年を経て老巧化
し、改築は村の大きな懸案であった。改築の気
運も高まり、北向の地に校地を取得したが、日
照時間などの問題で着工がおくれていた。
ようやく同地に昭和六十年に着工し、校地面
積一万二千五百四十平方メートル、校舎面積千
二百十四平方メートル、鉄筋一部四階建の近代
的校舎が総事業費六億六千万円の巨費を投じて
翌六十一年三月に完成した。内部の廊下や腰板
は、矢部特産の杉をふんだんに取り入れている。
トンガリ屋根をシンボルとした近代建築が高屋
城(城山)を背景に偉容を誇っている。
杣人の家 |
今から百三十年前の安政五年(一八五八)に
中間郷に建てられた古民家を、民俗の保護伝承
と地域づくりの拠点のひとつとして買収し改修
復元して昭和六十二年に、一般に公開した。
一尺二寸の欅の大黒柱、三尺三寸の二段の梁
など重厚な造りで先人の気骨がしのばれる。こ
こでは婦人グループ「ミセス・アルペン友の会」
が、矢部特産の四季折々の素材を生かした山菜
料理を一般に提供し、好評を博している。
旧役場は、老巧化も甚しく危険なうえ手狭で、
業務遂行にも支障を来たすほどであったし、教
育委員会、図書館も離れた場所にあったので、
きわめて不便であった。また村民の研修、集会
に欠かせない中央公民館もなかった。
そこで旧矢部小学校跡に、敷地面積四千九百
二十九平方メートル、延床面積三千三百二十二
平方メートル、総工費六億二千八百六十万円を
投じて、矢部の山峡にふさわしい鉄筋二階建て
の近代的な役場庁舎と中央公民館が昭和六十三
年に竣工、落成した。
玄関から左棟が議会、行政棟、右隣が大ホー
ル、図書館になっている。
外観はロッジ風屋根と大木を表現した丸柱を
四方に配し、内部は矢部の木材を使用して村民
に親しまれるような温かみを出している。
体育館 |
今まで村には体育館がなく、体育館建設は村
民の久しい待望であった。
鬼塚のグラウンド東側に敷地を選定し、建設
省の認可を受け、「新林業構造改善事業」の林
業者等健康増進施設として矢部村体育館が昭和
六十三年八月に完成した。
敷地面積千三百十二平方メートル、事業費二
億一千八百万円、一階は鉄筋コンクリートの駐
車場、二階は木造(アリーナ)の混合構造で、
バレー・コート二面がとれ、天井、壁面は矢部
の木材を十分に生かしたユニークな造りになっ
ている。フレームに大断面集成材を使用した木
造体育館としては、アリーナの規模が西日本で
は随一の大きさを誇っている。
杣の里 |
杣の里渓流公園の建設は、村の活性化の核と
して交流をテーマに今後の躍進を図る施設であ
る。
管理運営を第三セクター方式により行うこと とし、平成元年四月十四日設立発起人会におい て財団法人「秘境杣の里」の設立が決定し、同 年七月一日設立された。
参画団体は次のとおりである。 福岡銀行 九州旅客鉄道株式会杜(JR) 西日本銀行 東急エイジェンシ 生協連合グリーン・コープ 八女市町村会 矢部村農業協同組合 矢部村森林組合 矢部村
なお、この施設は、平成元年九月二十一日、
村制施行百周年記念事業式典に合わせて、名誉
村民第一号に推戴された栗原一登氏の臨席を仰
いで開園式が盛大に挙行された。
昭和六十二年、村のイメージ・アップを図る
ため、村の木、花、鳥の指定を行った。村民に
アンケート方式で公募した結果、村の木として
「サクラ・スギ」、花は「シャクナゲ」、鳥は「ヤ
マドリ」と決定した。
サクラ | シャクナゲ |
杉 | ヤマドリ |
本村は農林業のほかに見るべき産業もなく、
農林業の低迷とともに人口は減少の一途をた
どっている。
このような状況の中で、村の財政事情は当然
極めて厳しいものがある。
本村の人口は昭和二十五年の六千二百五十一
人をピークに年々減少し、昭和五十五年には三
千六十四人となり、昭和六十三年には遂に二千
五百人を割って、平成二年三月三十一日現在、
二千三百五十一人となってしまった。
本村は、極めて厳しい財政の中で、農山村振 興と生活環境の整備のために、今日まで地方交 付税交付金や国・県の財政援助を受けて、さま ざまな事業を推進してきた。
昭和四十五年に過疎地域対策緊急措置法が制
定されるや過疎地域の指定を受け、過疎地域振
興のため重要施策として村道の改良舗装等交通
通信体系の整備、農林道の開設等農林業の基盤
整備を図るとともに、緑茶加工施設の近代化な
ど農林業の振興に力を注いできた。また昭和四
十七年には矢部村振興のための指針となる「長
期総合振興計画書」を策定し、時を同じくして
九州大学に委託して「矢部村振興基本調査」を
実施した。さらに「矢部村総合振興計画書」
「過疎地域振興計画書」を策定して農林業を中
心に生活環境の整備及び教育文化の振興に取り
組んできたのである。特に昭和五十年の基幹集
落センターの建設と昭和五十三年の高齢者生産
活動センターの建設は、遅れていた本村の社会
教育の振興、高齢者福祉の活性化に大きく寄与
してきた。
このほか地域医療、保健衛生、生活関連施設
の面においては、広域医療としての八女公立病
院の整備をし、患者輸送車も配備した。八女東
部広域衛生組合によるゴミ処理対策やし尿処理
対策を積極的に実施するとともに、広域消防組
合による矢部分駐所の設置、老人対策として入
浴場及び老人憩いの家を建設し、高齢者の楽し
みと生きがいが持てるような村づくりを推進し
てきた。
近年にはいってはスポーツ・レクリエーショ
ンの場として夜間照明施設を備えた運動広場の
整備、五十九年に矢部小学校の移転新築、六十
二年には行政サービスの向上と文化福祉の充実
のための村庁舎並びに中央公民館の建設が完了
し、若年層を中心に要望の強かった村民体育館
が運動広場のすぐ隣りに昭和六十三年に完成し
た。
しかしながら依然として低迷する農林業をい
かにして活気づかせるか暗中模索をする中で本
村が昭和六十二年から三ヵ年計画で取り組んだ
国土庁所管の過疎地域集落整備事業のひとつで
ある「リフレッシュふるさと推進モデル事業」
は、低迷する過疎地域の振興策の切り札として、
自然、伝統、風俗、人情など過疎地域特有の魅
力や特性を都市との対比によって再認識すると
ともに、都市との交流を通して過疎地域の活性
化につなげようという事業である。
本事業により平成元年九月にオープンした
「秘境杣の里渓流公園」は、村内の多数の雇用
の場を作り、地場産業の育成や農林特産物の開
発販売や交流客の増加に伴いさまざまな形で経
済的、文化的波及効果をもたらし、村の活性化
に大きく寄与している。
このように近年本村の生活環境は大きく変貌
し、今日広域的行政課題への対応として八女、
筑後広域市町村圏における振興対策事業の推進
と相俟って、より豊かで住みよい生活環境の整
備に努めている。
こうした事業の実施に伴って自主財源の乏し
い本村では、財政運営が厳しくなり、経常収支
比率や公債依存率が高くなるなど財政の硬直化
に対して的確な対応を迫られている。
財政規模は表三のように年々増大する傾向にあ
り、自主財源としての村税の占める割合は、表四
のように四・九パーセントと極めて低く、地方
交付税に四十四パーセントを依存する財政運営
がなされている。
財政の硬直化に対応するため、昭和六十一年
に行政改革大綱を策定するとともに、これに基
づき行財政の見直し、改革を実施し、財政の健
全化を最重点項目として健全財政の運営に当た
り財政運営も安定してきている。
しかしながら依然として国の財政状況が厳し
いなか、本村の財政運営も窮屈な状況が続き、
高齢化社会を迎えて福祉対策を中心とした事業
に取り組まなければならないが、長期的展望に
立った健全財政運営を堅持するために、経常的
経費の節減を積極的に推進し、明るく豊かな村
づくりを推進しなければならない。