矢部村婦人会のあゆみ

矢部村婦人会の歳末助けあい

矢部村婦人会の歳末たすけあい(昭和34年)

戦前までの女性の地位は、法律的にも社会的にも低く、男尊女卑の封建的な慣習の中で、貞節と忍従が女性の美徳とされてきた。女性は、良妻賢母として忍耐強く、家を守り、夫に仕え、子どもを守り育ててきたのである。

明治の終わり頃から大正にかけて、平塚雷鳥、与謝野晶子、山川菊枝、景山英子、市川房枝らの女性解放運動が芽生え始めたが、大部分の女性は、なお社会的に低い地位に甘んじていた。

平塚雷鳥は、雑誌「青踏」の創刊号に「元始女性は太陽であった。そして今は太陽の光によって青白く輝く月である……」といって、太古では女性の地位は高く、男性と同等であったが、歴史とともにだんだん低くなっていったことを説き、女性の目覚め、自覚を訴えた。

戦時中は、銃後の守りとして国防婦人会が結成され、出征兵士の見送り、出征家族や軍人の慰問、千人針、慰問袋、廃品回収など戦争遂行のために協力させられるようになった。夫のいない家庭で、家族を守り、子どもを育てることは、並大抵のことではなかった。

戦後の民主化により女性は解放され、日本国憲法は男女平等を規定し、女性の地位は著るしく向上した。婦人参政権が認められ、婦人代議士も誕生して、政治的にも社会的にも進出するようになった。

しかし、法律上、制度上女性の地位が認められても、女性自らの意識改造なしには、真の女性解放と地位の向上はのぞめない。そこで、自己の研修と相互扶助、交流を目的とした婦人会が自主的に組織され、積極的に活動を展開し始めたのである。

矢部村婦人会は、昭和二十四年に八女郡連合婦人会の結成とともに発足し、矢部村では初代会長に大渕ユキエ氏が就任して活動を開始した。

各種研修会の開催と参加、養老院の慰問や環境美化などのボランティア活動、冠婚葬祭の簡素化をめざす生活改善運動、合成洗剤追放や消毒薬剤散布などの環境衛生浄化運動、明るい選挙の推進、矢部村祭、敬老会、盆踊り花火大会などの文化活動、体育祭参加やママさんバレーボールなどの体育活動、保健衛生思想の普及や食生活の改善、青少年健全育成などその活動内容は広く多岐で、地域の生活改善、向上の中心的存在として活発に意欲的に活動し、村づくりの大きな活力として評価されている。

婦人会は設立の趣旨から政治的にも宗教的にも中立を保ち、一党一派に偏しない純粋な自主的、自治的な組織で、会の運営費のほとんどは、会員の会費や廃品回収、物品の販売などの収入を充てているのが現状である。

現在の会員数は四六四名で、少数ながら会員一同会の目的を体しつつ、自己の研修と婦人の地位向上を目指して地域、村の活性化に貢献している。

  歴代会長

 初代会長 大渕ユキエ  昭和二四〜三一   二会長代 小畑綾子   昭和三二〜三六   三代会長 田中蓮子   昭和三七〜四〇   四代会長 宮原ユキエ  昭和四一〜五〇   五代会長 谷山チヅ子  昭和五一〜五二   六代会長 関百合子   昭和五三〜五六   七代会長 中司勝与   昭和五七〜五八   八代会長 栗原トミ子  昭和五九〜平成二   九代会長 栗原ツルミ  平成三〜

矢部村青年団のあゆみ


青年団の活動(矢部祭り)

青年団の活動(矢部まつり) 

昔から集落や村落では、同年代の若者たちが地域の生活改善や公共の利益、風紀の矯正、徳性の涵養などを目的とした集団を組織し、祭りや村の行事の中心となり活動してきた。

そこには成文化された規則はなかったが、暗黙のうちに出来たひとつの規範や不文律があって、先輩の指導のもとに集団の規律や秩序が保たれていた。

江戸時代から各地にそういった集団教育の場があったが、その中でも有名なものが鹿児島の「郷中(ごちゅう)」教育であった。そこからは、西郷隆盛や大久保利通などの明治維新の功労者が輩出したのである。

本村では明治・大正・昭和の戦前にかけて、集落ごとに青年会、若者会、処女会などの若者集団の組織があった。竹原集落では、規則まで成文化した青年会が組織され、夜学会が行われていたことが「夜学会誌」に残されている。他の集落にも青年会が組織され活動している。祭りや娯楽を主催したり、集落の作業に出たりしていた。英彦山詣りや宮地嶽さん詣りなどは、若者たちの唯一の楽しみであった。女子青年の集まりである処女会では、村の古老から行儀・作法・和裁・生花などの手習いを教わったものである。

戦時になると、戦争にかり出された者も多かったが、残った者で勤労奉仕作業や戦勝祈願の行事などを行っていた。

戦後の一時期は、国民は皆希望を失い虚脱状態になったが、村の青年たちは苦しい生活の中でヤクザ踊りやマドロスものでウサを晴らしたり、団運営の資金稼ぎをしたりしたものである。

世の中が落ちつきはじめると、社会教育の必要性が叫ばれ、婦人会や青年団が結成され、村の諸行事の中心となって活動しはじめた。

矢部村では、昭和二十三、四年ごろ、江田富雄氏や若名満氏などが青年団結成に尽力された。旧矢部村公民館が落成した昭和二十五年から歴代青年団長の名前が残っている。昭和三十二年の原嶋貞夫団長のころは、活字印刷の青年団報が出されて、日向神ダム建設問題などを取り扱っている。次の佐藤信安団長のとき、矢部村青年団歌が出来ている。また、昭和四十年栗原民男団長のとき、盆踊り大会が始まって青年団の伝統行事として今日まで続いている。

時代が移り、村が変貌する中で、若者の村外流出が目立ちはじめ、青年団員は急速に減少してきた。その中にあって、村おこしの原動力は若者青年団にあると少数精鋭の青年団活動が精力的に続けられている。

昭和五十六年石川清和団長のとき、青年団の城ともいうべき矢部村青年会館が宮ノ尾に落成したことは、低迷する青年団活動に大きなはずみとなった。

村内では、伝統的な盆踊り花火大会の資金づくりに団員全員が杉の下草刈りを実施して、よそに見られない手造りの盆蹄り花火大会を毎年続けており、村民や帰省客を喜ばせている。そのほか矢部村体育祭や農業祭の共催や青年祭の創作劇の上演など好評を博し、青年の意気を吐いている。

対外的にも八女郡や県の連合会にも積極的に参画し、県大会や全国大会にも参加し活躍している。昭和六十二年に東京で行われた全国青年大会では「意見発表の部」で、石川幸一氏らが青年団活動としての「魅力あるふるさとづくり」のテーマで発表し、最優秀賞を獲得した。そのほか、栗原稲生氏や原嶋猛夫氏も以前に全国青年大会で優秀賞に輝いた数々の歴史がある。

青年団の組織として現在、栗原嘉寿秀団長を申心に三十名の団員が、研修部、文化部、体育部、教育部、家政部の五部に分かれて所属しているが、団員不足が悩みの種である。

青年団歌

佐藤信安 作詞、作曲

一、矢部に生受け渓流の 清水に切嵯琢磨して 育くまれたる青年は 意気揚々と精かんだ 御前の山嶺仰ぎ見て 矢部青年は進むなり

二、晴耕雨読の精神を 若さの中に自覚して 苦悩を共に分かちあい 誠実一路に生きなんと 人間形成めざしつつ 矢部青年は進むなり

三、緑の村に克苦して 自然を愛する青年に 一致団結発らつと 太陽を胸に抱きつつ 猪突猛進勤労し 矢部青年は進むなり

矢部村青年団長名(判明分)
氏 名     氏 名
昭和25 江田 誠正   昭和47 栗原 健四郎
 〃 26 高橋 保夫    〃 48 栗原 英明   
 〃 27 姫野 英夫    〃 49 牛島 良人   
 〃 28 江田 春雄    〃 50樋口 節生
 〃 29 原島 英治    〃 51 栗原 正嗣   
 〃 30  〃  〃 52 栗原 昭典   
 〃 31 栗原 照幸    〃 53 江田 伸一郎  
 〃 32 原嶋 貞夫    〃 54 栗原 裕典   
 〃 33 佐藤 信安    〃 55 北原 徳己   
 〃 34 石川 忠夫    〃 56 石川 幸一   
 〃 35  〃  〃 57 原嶋 猛夫   
 〃 36 白石 数行    〃 58 江田 光    
 〃 37 川島 健児    〃 59 原島 和浩   
 〃 38  〃       〃 60 栗原 伸幸   
 〃 39 栗原 民男    〃 61 栗原 直宏   
 〃 40 栗原 良子(代理) 〃 62 仁田原貴正  
 〃 41 高山 満     〃 63 若杉 信嘉   
 〃 42 栗原 久助    〃 64 栗原 英樹   
 〃 43 高山 敬蔵   平成元  〃      
 〃 44 栗原 槇夫    〃  2 栗原 嘉寿秀  
 〃 45 栗原 久作    〃  3  〃    
 〃 46 長田 富太