坂本家は、代々矢部村で約三百年ほど前、江戸時代から医業、村政などにたずさわり、村の発展に貢献した家系である。
坂本家の過去帳によると、坂本家の医業は九代までさかのぼることができる。
坂本家のもとの姓は武本であった。
初代は武本元的で、明和二年(一七六五)に没しているから、今から約二百三十年ほど前になり、竹下五郎右衛門が笹又で私塾を開いていた頃である。
二代目峻養は寛政八年(一七九六)十一月五日六十八歳で没し、三代元庵は天保七年(一八三六)三月八日、七十三歳、四代李渓は嘉永三年(一八五〇)八月三日、六十二歳で没している。
当時は矢部はまだ道も開けず、竹藪などが多く、夜提灯をつけて山道を患家の往診に行くと、途中で狐や狸が「元庵さん、元庵さん、殊正寺が火事げな」などと言ってからかったというおもしろい話もある。
五代清哉輝孝は、明治十二年九月二十三日、六十六歳で没している。
故 坂本有隣氏 |
六代虎之助は、天保十三年(一八四二)九月十六日、清哉輝孝の長男として生まれ、医学と漢学を黒木町笠原の医家安達九十九に学び、仁徳をもって患者に神と仰がれていたという。戸長(のち村長)在任二十有余年に及び、医業のかたわら村内治政に尽粋し、植林、道路開削、土地の誤謬調べなど社会事業にも尽くした水利土木産業功労者でもある。
戊辰戦争にも軍医として奥州まで遠征している。日露戦争中の明治三十七年十月八日、六十三歳で没している。生前の功績により明治三十八年、白色桐葉章勲八等を追贈されている。
虎之助のとき姓を坂本と改めているが、虎之助は武本という姓が義太夫の遊芸者と同姓であったのを嫌って坂本の姓に改めたという。
七代一郎は長崎医学専門学校に学び、父のあとを継いだ。昭和十六年の矢部の大火のときは中村で開業していたが、病気療養中で猛火の中を避難するのに大へんであったという。三年後の昭和十九年六月二十二日、七十八歳で他界した。
八代有隣(ありちか)は、久留米医学専門学校(久留米医大の前身)の第一回卒業生である。昭和十三年矢部村に赤痢が大流行した事がある。当時矢部には、医家は一軒しかなく、有隣は全村の患家をまわって治療に当たっているうちに、長男と次男を赤痢で失うという悲痛な辛酸をなめている。昭和四十七年、へき地医療の功績によって勲五等双光旭日章を受章した。老後は三男敦夫氏に家業を託して、昭和六十年一月二十日、八十三歳の高齢をもって他界した。
ちなみに、三代村長坂本銕之進は、有隣夫人深雪の父君である。
九代敦夫氏は、有隣の三男で昭和十六年十二月七日生まれの五十歳の現役である。矢部小.中学校・八女高等学校を経て久留米医大に学び父のあとを継いだ。昭和四十九年、小郡市小郡に胃腸科、内科を開設し、六名の看護婦とともに医業に専念し、現在に至っている。
引地国義氏は、明治三十七年十一月十七日、大分県下毛郡溝部村大字草本(現山国町)で、引地栄、郷原サダの長男として生まれ、地元の小学校から高巣小学校へ転入した。父の仕事の関係で嘉穂中学校に学び、朝鮮の大邱医学専門学校で医学を修めた。卒業後満州国軍医として博克図(ブハト)治安部病院長、海拉爾(ハイラル)治安部病院長、チチハル市南門医院長として活躍した。
終戦と同時に家族ともにハルピン収容所の新香坊病院副院長として疎開した。
収容所内では発疹チフスやジフテリアが蔓延し、毎日何十人も死んでいったが、医薬品も乏しい中で献身的に患者の治療に当たったり衛生指導を行ったりした多くの人から感謝された。
昭和二十一年九月、故郷の矢部村に帰り、翌年二月宮ノ尾で開業した。
故 引地国義氏 |
村では昭和三十七年から八年にかけて流行性感冒が大流行したが、氏は毎日昼夜をわかたず馬に乗って竹原、山口など全村をまわって治療に当たられた。
保健、衛生思想が十分普及していなかった終戦後だったので、農夫病や農林作業での怪我人も多かったという。また難産の妊婦から多くの赤ちゃんを取り上げられた。
昭和六十年、長年のへき地医療にたずさわった功績が認められ、第十三回医療功労賞の栄誉に輝き、賞状とメダルを贈られた。
皇居で天皇陛下(昭和天皇)に親しく拝謁を賜り、帝国ホテルでの盛大な祝宴に出席したのが生涯最大の思い出になったと述懐されている。
昭和三十五年ごろ、町村合併の話が持ち上がった。県の方針としては隣村の大渕村との合併案が提示された。村当局では、県の合併促進の説得で、お上の言われるように合併しようという気運が強かった。一方当時の矢部村は、木材の好況で広大な村有林を有していたし、「昔の矢部の姿を変えたくない」として反対する人も多かった。
引地氏は合併反対の立場からかつての小学校の恩師であった轟政次郎村長と対立し、新原源太郎氏を反対派の委員長に立て、自らは反対派の先鋒として各学校区を回って反対運動を続けた。その結果、県は矢部村を合併の対象から外すという方針を打ち出し、事実上合併は沙汰止みになった。
氏は、教育、文化面にも深い関心と造詣をもち、長年矢部中学校医やPTA会長をつとめられた。またテレビもないころ、矢部楽団を編戒して村内を巡回されたという。晩年には矢部村の文化連盟会長を長くつとめられ、村の教育文化の振興につくされた。柔道三段、囲碁二段と趣味も多方面にわたっていた。
平成三年四月二十六日、八十六歳の高齢で他界された。
郷原副由院長 |
郷原副由氏は、坂本病院が村外に転出し、引地国義氏が他界された現在、村の医療を一手に引き受けて活躍されている医師である。
副由氏の岳父郷原清吉氏は大字北矢部竹原の出身である。若くして久留米市の大村歯科医院に書生として住み込み、独学で大学受験の資格を取得し、日本大学歯学部に学び、宮ノ尾に歯科医を開業した苦学力行の人である。
副由氏は、清吉、サヲの三男として昭和四年十一月七日に生を受けた。矢部小学校から八女中学校に学び、戦後の二十三年に卒業した。そのころは男性はほとんど戦場にかり出されて、極端な教師不足の状況であった。そこで村の要請を受け、一年間本村高巣小学校の代用教員をつとめた。翌年正式の教員免許を取得するため、福岡第一師範学校(福岡現福岡教育大学)に入ったが、父清吉氏も副由氏も医師になることが夢であった。たまたま久留米医科大学の募集を知ったのが入学願書締切りの当日であったという。当時一万円という高額の受験料と入学金を血のにじむような思いで調達し、ようやく入学することができた。
郷原外科内科医院 |
昭和三十一年に久留米大学医学部一回生として卒業し、さらに大学院博士課程を修めた。
当時国民病といわれていた肺結核で父母を亡くした副由氏は、結核撲滅の悲願を立てて、伊万里市の結核病院に勤務医として胸部外科の医術を学んだ。
ところが、昭和三十七年十月、村に医師が不足しているということで、村から強い勧誘を受け、その要請を拒みきれず、帰村して中村の仮診療所で開業し、その翌年、鬼塚の現在地に病院を建てて今日に至っている。
現在、一村一医の医師として、一般診療や往診のほか、三小中学校の校医として、また各種検診、予防接種、健康相談など一人で多忙な医療活動に精力的に活躍しておられる。
今から先は「治療医学でなく、予防医学が医業の本流にならなければならない」というのが氏の持論である。
副由氏は医師としてだけでなく、文学や絵画等にも深い造詣を持ち、教育、文化に深い関心と理解を持っておられる。
昭和十年代「九州文学」同人で本村在住の故田中稲城を中心に刊行されていた文芸誌「村」を郷土の詩人堆窓猛や善正寺住職田中瑞城らと復刊したり、稲城忌を主催して「田中稲城作品集」を刊行したりした。
現在も医業のかたわら、村の行政、教育、文化面で幅広い提言や示唆を与え、村民の厚い信望を得ている貴重な存在である。
御芳名 | 生年月日 | 住 所 | 叙勲及び 受賞名 |
叙勲及び 受賞の 理由 |
叙勲受賞 年月日 |
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轟 政次郎 | M. 26. 3. 21 | 北矢部 7,959 | 勲五等瑞宝章 | 自治功労 | S. 43. 11. 3 |
川島 真純 | M. 30. 8. 6 | 北矢部 4,787 | 勲六等単光旭日賞 | 〃 | S. 43. 11. 25 |
坂本 有隣 | M. 35. 8. 12 | 北矢部 10,741 | 勲五等雙光旭日賞 | 医療功労 | S. 47. 11. 3 |
小川 儀市 | M. 30. 4. 23 | 矢部 2,725 | 勲六等単光旭日賞 | 自治功労 | S. 50. 11. 3 |
椎窓 均 | M. 32. 9. 10 | 矢部 2,710-21 | 勲五等雙光旭日賞 | 教育功労 | S. 44. 11. 3 |
江田 勝 | M. 38. 8. 9 | 北矢部 5,133 | 勲五等雙光旭日賞 | 自治功労 | S. 50. 11. 3 |
大渕 民蔵 | M. 38. 1. 9 | 北矢部 9,347 | 勲六等瑞宝章 | 〃 | S. 52. 4. 9 |
荒山 繁雄 | M. 44. 8. 10 | 北矢部 2,199 | 勲六等旭日賞 | 〃 | S. 58. 4. 29 |
原島千代吉 | M. 45. 7. 18 | 北矢部 1,743 | 勲五等旭日賞 | 〃 | S. 58. 11. 3 |
若杉 文夫 | T. 5. 12. 9 | 北矢部 9,233-1 | 勲五等瑞宝章 | 〃 | S. 62. 4. 29 |
田中 蓮子 | M. 45. 2. 26 | 北矢部 4,869 | 勲五等瑞宝章 | 福祉功労 | H. 02. 5. 10 |
谷山 正幸 | T. 9. 2. 21 | 矢部 885 | 藍綬褒章 | 消防功労 | S. 53. 2. 18 |
引地 国義 | M. 37. 11. 7 | 北矢部 10,489-1 | 厚生大臣賞 | 医療功労 | S. 60. 3. 22 |
若杉 繁喜 | T. 12. 10. 15 | 北矢部 8,291 | 黄綬褒章 | 林業功労 | S. 57. 11. 16 |