現在の矢部村森林組合 |
矢部村の林業の歴史は古い。既に江戸時代に久留米、柳川両藩は、山奉行を設け、マツ、スギの植林を奨励し、木炭、椎茸については物納を義務づけている。
文政二年(一八一九)には、立木の伐採権をめぐって北矢部と豊後津江とに八ツ滝事件という境界線争いが起こっているが、木材が矢部村にとって重要な資源であったことが分かる。
明治の頃は、ケヤキ、クリ、モミ、ツガ、マツ類を丸太や角材として搬出し、その伐採跡地にはスギの造林が進められた。明治三十年頃から直挿しや実生苗の植栽による計画造林を国や村の造林補助金を受けて着手している。
大正初期には、電化による電気産業の発展に伴って電柱材生産が始まり、簡単な防腐加工施設も出来、製材所も次々に作られていった。
戦中の昭和十五年頃から戦後の復興瑚の二十五年頃にかけては、造林地にノイネ、ヒエ、イモなど食糧増産のための小場作が盛んに行われた。
矢部村森林組合が組合員千二十六名で結成され発足したのは、昭和二十七年三月のことである。
設立と同時に造林事業、木材の伐採搬出事業を始めた矢先の二十八年、未曾有の集中豪雨によって山林および林道が大きな被害を出し打撃を受けた。その復旧工事は困難をきわめ、多大な労力と経費を投じなければならなかった。
木材の運搬 |
昭和三十五年には、宮ノ尾橋の側に待望の森林組合事務所が落成し、業務も充実していった。
その当時は、高度経済成長の時代で、木材の需要も高まり、木材価格が高騰したため、林業の全盛時代を迎えた。本格的な早生系のスギ挿穂苗が天然林伐採跡地などに盛んに植林されたり木材搬出のための林道が改設されたりした。
このように木材の量産体制を推進していく中で、昭和三十六年、八女東部の矢部、黒木、星野の三森林組合の共同経営になる県下唯一の森林組合八女森林組合共販所を設立し、木材の需要促進と流通組織の円滑化を図った。さらに矢部村では、昭和三十七年七月に森林組合の下部組織として会員二十名をもって矢部村愛林クラブを結成し、林業経営に対する意欲と技術の向上を図ってきた、また、昭和四十年には杉の大敵である害虫杉玉バエが異常発生し、杉の成長に甚大な影響を及ぼすことから、ヘリコプターによる駆除薬の空中散布で防除を実施した。
昭和三十七年、日向神ダムの建設による水没地の住民の立ち退きや村外流出も手伝って、この頃から人口流出が目立ち、過疎化が徐々に進行していった。林業従事者も高齢化し、後継者が不足し、林業の生産活動に支障を来たす状態になってきた。
そこで、昭和四十三年九月、二十四班百七十六名によって矢部村森林組合労務班を結成し、林業退職金共済、振動病障害健康診断、林業機械の取り扱いの実技講習や免許取得の指導などの実施により、林業従事者の育成と確保に努めてきた。
シイタケの栽培 | 村の林業(どんだびき) |
こうして矢部村森林組合の組織づくりを推進していく中で、矢部村の林業も除間伐期を迎えた。そこで、間伐材の活用のため、昭和四十六年、小径木加工事業を開始した。その後、作業用建物、皮はぎ機、円柱加工機、防腐剤注入機などの加工施設を充実していった。坑木、足場材、円柱などの防腐剤注入加工により小径木の加工や集出荷作業が計画的、効率的にできるようになり、製品を安定的に供給できるようになった。
昭和四十九年には、「組合員の組合利用と組合員による組合確立」を基本方針として意見箱を各区に設置し、組合員総参加による組合づくりを進めるとともに、素材、電柱材の販売体制の確立に努めてきた。
昭和五十四年には、「高齢者生産活動センター」の木工部門の運営を村から森林組合に引き継ぎ、花台、テーブル、床飾りなどの製作、販売を開始した。同年、各種林業補助制度事業に加え、「福岡県水源の森基金事業」が設立され、矢部村の間伐などの保育施業が急速に進んでいった。
木材の積み出し |
激動の昭和も終わり、平成の新しい年を迎えたが、木材需要の減少、林業諸経費の高騰、労働力の低下等の諸問題が山積していて、森林組合の使命である足腰の強い林業経営を目指して努力しているところである。その一環として、平成二〜三年にかけて「地域材産地化形成促進モデル事業」により、現在の八女木材共販所を八女市長野に移転拡張した。併せて八女郡六ヵ町村の森林組合で、「八女地域木材共販森林組合連合会」を創立し、地域一体となって国産材を安定して供給できる体制を確立していくとともに川上と川下が連携して需要者の二ーズにあった林業経営を目指して努力している。
栗原団九郎 昭和二十七年〜昭和三十六年 江田 勝 昭和三十七年〜昭和四十五年 若杉繁喜 昭和四十六年〜昭和五十七年 小森忠男 昭和五十八年〜昭和六十三年 栗原照幸 平成元年〜
組合員数 千九百二十九名 出資金 六千六百十三万六千円 役員 理事 八名 監事 三名 職員 百四名 常雇 男二十二名 女六名 労務班 七十六名 愛林クラブ 五十五名 青年の山 四ケ所 参与委員 三十名