第1回 久留米ん町 探検隊 大石町編

 ・実 施 日 :2009年12月1日(火曜日)
 ・実施要綱:大石町、池青寺、二ツ橋、(徒歩で約3時間)
 ・集合場所:荘島プラザ シニアネット久留米の玄関前
 ・集合時間:13:30
 ・参加人数:22名 

 ・コースは下記の通りに行いました

荘島本部スタート;
13:30 :――>大石神社――>大隈天満宮――>池青寺――>二ツ橋
                                            ↓
荘島本部到着;<――――――――――――――――――――――処刑場
   16:30

13:30分 シニアネット久留米の玄関前に集合出発


最初に到着したのは大石神社です。 由緒は不詳。
伊勢天照御祖神社の論社は、高良大社参道にある同名社とここ大石町に。
本殿の下に「大石太神宮」と刻んだ石額が保存されているようです。

境内社には、祇園神社、佐岐神社、大國主神社、恵比須神社、粟島神社、大石霊社、
事代主神社、天満宮。入口の鳥居側には猿田彦大神の石祠があります。



久留米ん昔話の「太る石」がご神体の神社です。
隊員で氏子の徳永さんから、
祭りの様子を紹介されました。


昔ん久留米弁で「太る石神社」の語り部。

白角折神社


伊勢天照御祖神社の神木


次に向かったのは梅満町の 大隈天満宮です。

嘉禄3年、地頭の大隈修理太夫が大隈山に社殿を建立しました。天正8年兵乱で焼失したが
境内に残る一株の千年松を神体としました。文禄2年の洪水のとき長門石の産神菅原神の神体が
流れてきて、この松にひっかかったので小祠を建てこれを祭り産土神としました。

大隈村は佐賀藩士大隈家祖先(大隈重信の祖先)発祥の地と言われています。


銀杏の紅葉が美しい大隈天満宮
現在の大隈公園


津福本町・有馬藩の由緒ある池青寺の山門


池青寺は1751年有馬藩7代藩主の生母が6代藩主を弔うために建立。
その位置は南方に金丸川を隔てて二ツ橋の刑場に対し、
西と北に筑後川流域の低湿地帯をめぐらす鳥飼の台地の突端に位置しています。

柳川往還
を北進して最初に久留米の町にとりつく要点を抑え制していた重要地点です。


住職から罪人の駆け込み寺と言い伝えられている話や、寺に残る貴重な資料を見せて頂きました。
罪人を縄で繋ぐ時には、罪の重さによって結び方
が違っていたそうです。

有馬藩の家紋笹リンドウがある池青寺の瓦。

石垣には徳利と盃がはめ込まれている。

二つの川が交わった所が二ツ橋、1750年二ツ橋処刑場が全ての斬罪場になりました。 
1754年宝暦の大一揆が起こる。(百姓一揆の中でも日本有数の規模)
人頭税(8歳以上への人別銀)に怒った百姓が、全郡から6万〜10万人参加、
37人もの処刑者を出しました。

久留米藩の牢屋敷今の荘島小学校)から池青寺の傍の男橋、女橋を渡って、
処刑場へと引かれて行ったようです。

役人は処刑するに忍びない罪人をこの橋の付近でわざと縄を緩め、池青寺への駆け込みを、
手助けしたそうです。 昔も心ある役人がおられて救われます。
金丸川に掛かっている男橋
もう一つは湯の尻川に掛かっている女橋.

二ツ橋処刑場の上ん段の片隅に六地蔵が祀られています。
処刑のあまりの惨さに、お地蔵さんは後ろを向いたと言い伝えられています。
今は前を向いていました。
上ん段の道路を隔てて下ん段が処刑場でした。

処刑場の前の道は、田中吉政が作った柳川と久留米を結ぶ道路です。
この道路沿いに斬首した首を並べたので(一説によると、はぜ並木の枝に架けた)
見かねた地蔵が反対側を向いていたそうです。

江碕済宅跡 
八女教学の祖として多大な業績を残された漢学者で、ポテト王の牛島謹爾も師事したとのことでした。

牛島謹爾生誕の地
アメリカに渡りポテト王と呼ばれた人物で、
明治時代、日本とアメリカの関係を構築す
るために私財をなげうった偉大な人です。

青木繁生家はsnk本部の近くに

荘島町にある青木繁の碑

12月1日に、「第1回久留米ん町探検」を実行しました。隊員は22名での、大変賑やかな
探検となりました。今回は、大石町、梅満町、津福本町、荘島の神社仏閣および旧跡を
巡りました。snk前会長の廣津さんに当日の案内役をお願いしました。

廣津さんの地元でもあり各探検場所では、大変詳しく説明頂きました。
また、池青寺では、住職に寺の歴史や言い伝えについて、お話を伺うことができました。

約3時間の行程でしたが、お陰様で隊員一同、久留米の町の見聞を広めることができ、
早くも次の探検要望が出ております。大変有意義な1日でした。

最後になりましたが、廣津さんに今回のご足労に対する感謝と御礼を申し上げます。

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