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菊竹六皷記念館
5・15事件における少数軍人暴虐に対し痛烈な軍部批判を行った
「福岡日日新聞」(「西日本新聞」の前身)の主筆菊竹六皷の遺品及び記録を
後世に伝える記念館で、展示室のほか和室やホールがある
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素戔嗚神社
素盞嗚(すさのお)神社は、通常「祇園さま」の名前で親しまれている神社で、
町中にあったご神体を大火災の宝暦13年(1763年)現在地に素戔嗚神社を祀った、
もしくは当時この地は町の鬼門にあたり、魔除けとして荒神である素盞嗚神を祀ったと
言われている。吉井祇園は明治初期に、天領日田の祇園囃子が伝授されたもので、
明治にかけて町民がこぞって祭礼に参加したといわれている。第2次大戦中は休止したが、
昭和30年頃から復活し、現在に至る。現在は7月21〜22日の両日に実施。
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「しん川の由来」
今から三百年前ほど前の浮羽地方の土地は非常に肥えていたが、
土地が高く水に乏しいのでひでりのため作物がみのらず、
餓死する人がたくさんあってこまっていた。
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五庄屋
五庄屋はどうかして、これを救おうと思い立ち久留米藩主有馬候に
筑後川の水を引き入れる工事を願い出た。しかし、藩主は工事の容易で
ないことを思われて、なかなかお許しにならなかった。
五庄屋は死を決して嘆願し「もし事が成就しなかった時は、私共五人を
お仕置きください。」と申し出た。
そこで長野の土手に五つのはりつけ台が立てられ工事が始まった。
郡内の人は、なさけ深い五人の庄屋を殺してなるものかと
昼夜一生けんめい働き、
女、子どもまで手伝って木や石をはこび、りっぱな川ができた。
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