甘木を歌った歌の一つに尾籠晴夫作詩作曲の甘木小唄があり、その中に次の歌詞があります。
そればかりではなく、この甘木山安長禅寺の前にできた門前町が発展して、現在の甘木市ができたという、市街と地名の発祥源でもあります。 この古刹が創立された年代については、多くの文献が明らかではないとしていますが、史家 故 緒方伝先生は永年の研究にもとずき、醍醐天皇の延喜年間の末ごろ(九百十九年)ではないかと、推定されておられます。 一千余年におよぶ歴史を重ねた古刹はきわめて僅少であり、郷住の地に、このような古刹をもつことの意味を噛み締めながら、臨済宗東福寺派、甘木山安長禅寺の概容について触れて見たいと思います。 |
安長寺の縁起によれば、昔南都に「甘木遠江守安長」という豪士がいて、この方が安長寺を創建されたということであります。安長の父は安道と言う方で、早くから仏教を信仰していました。子の安長が幼いころ天然痘を患い、その命が差し迫った状態になったとき、安道は煩悶し、平素から信仰していた生駒郡矢田の金剛山寺に参篭し、霊夢を獲て、其のおかげにより、安長の病をなおすことができました。
甘木市の地名と甘木安長寺の山号は、創建者「甘木遠江守安長」の名を取ったものと言われています。 |
歴史の古い神社仏閣の縁起には霊異の伝承が多く伝えられていますが、安長寺の本尊である矢田の地蔵尊についての伝承が「元亨釈書」という本に書かれております。
このご本尊については開山以来今日まで、戦乱兵火にも焼亡毀損の記録はなく現在に至って居ますが、ただ火災の折後光は焼失したこともありましたが、このことについて第二十四代方丈実道和尚は、「甘木が旱魃の際にはこれを舁きて龍泉池に投ずるの伝統行事あれば、仏体の堅牢を期するため、これが修繕については、原形の多少の異同は免れない」と言明していたそうです。
目下金色を装えど以前は黒色なりしという
安長寺の山門を入り参道の半ばから左折した所に「結縁地蔵尊堂」があります。 このお堂は元禄十六年に、二十年近く母を捜し求めて全国を巡礼していた豊後の人が、甘木山安長禅寺の前でやっと巡り会えたのを感謝し、沙門となり境内に勧請建立したのが、このお堂です。 この堂内にある「筑前鈴」はその時に衆生の福縁を呼ぶために奉納したと伝えられて居ます。 今も残るこの地蔵尊の礎石には、次のように刻まれています。 願主 豊後州菖洞沙門 雷州 各各結縁信者男女等 甘木山安長禅寺沙門 大通慧潤 元禄十六癸年 このような由緒をもつだけに、善縁を結び、悪縁を除く霊験もあらたかで、信心するもの引きも切らず、花の蕾がよぶ春風のような、筑前鈴のあたたかくかろやかな音が、今日も福縁を呼び込んで居ます。 この堂には、また次のような献詠歌があって、人生の奥義を覗き見るようであります。
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この御堂は長い年月の間に何度も建て替えられていますが、現存する御堂は昭和四十二年九月に甘木市本町の林田守氏が寄進したものです。林田氏がこの御堂を寄進された経過については昭和四十二年九月士二日の読売新聞に詳しく記載されていますので、ここに転載いたします。
野ざらし地蔵さん社長さん寄進
甘木市安長寺 焼けて半年ぶり
甘木市八日町の安長寺(古泉洞雲住職)境内にあった結縁地蔵尊はさる3月、信者のともしたロウソクの火がもとで火事にあい木造のお堂は焼け落ちたまま野ざらしとなっていたが、信心深い町の人たちの善意でこのほどコンクリート建てのモダンな地蔵堂が完成した。
「善縁を結び悪縁を除く」のに霊験あらたかといわれるこの地蔵は元禄十六年、二十年近く母を捜し求めて全国を歩いていた豊前(大分県)の人が、やっとこの寺近くでめぐりあえたのを感謝して同寺内に建立した。古くから信心する人が多く同市には地蔵婦人会までできている。
ところがさる三月、火事にあい境内のクスの大樹の下で野ざらしとなっていた。
この話を聞いた同市、会社社長林田守さん(四八)は六年前なくなった母トイさん(当時六十七歳)が臨終の間ぎわまで深く信心していた地蔵尊だけにさっそくお堂の寄進を思いたち古泉住職や地蔵婦人会の人たちの了解をえて建築した。
安長寺はいつ頃建てられたか分からないという説もありますが、これはそれ程古いということです。もう一つは甘木安長の生存について確定する点証がないことにあります。しかし、安長寺創立の動機となった天然痘については、「続日本紀」によれば奈良朝聖武天皇の天平七年=七三五年にインドから中国・朝鮮をへて日本にはいったのが最初であるので、起点はそれ以後になります。
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安長寺が創建された当時は法相宗でした。その頃の法相宗は、我が国で、最初に広まった宗旨であったため非常に盛況でありました。 |
順空和尚は天福一年一月一日に生まれました。幼時は万寿寺の神子和尚に学び、さらに京都東福寺の円爾辯円や鎌倉建長寺の蘭渓の徒弟になりました。その後北条時頼や北条時宗に信頼されて、その勧めによって入宋しました。入宋後は十数年にわたって、呉越の間を遊歴修行して帰朝しました。 |
第九十五代花園天皇の応長元年に、博多承天寺の直翁知侃ヂキオウチカン―後の仏印禅師―が、豊後の国主 大友貞親に招かれて行く途中、安長寺で一泊しました。
この本では、後者の年号を採用しています。 |
太平記に「大永五年大友軍秋月軍と合戦兵火にかかる」とかかれていますが、足利氏の末、全国で群雄轄居があり、北部九州でも大友氏と秋月氏との数次にわたる戦いは、戦うたびに甘木・朝倉の人々を苦しめて来ましたが、大永五年には、ついに甘木の町に災害を与え、安長寺にも飛び火しました。 |
肥前平戸の豪族松浦民部大輔は「楢柴」と銘打った茶壼を秘蔵していました。この茶壼は世にも稀な名器で、天下の茶人垂涎の的となっていました。松浦氏は経済状態が逼迫してきましたので、高価ならば手放してもよいと考え、買手を物色していました。 |
この本の最初に、郷土玩具豆太鼓バタバタのところで、初市のことについて少しだけ触れていましたが、実は、この初市にも千年以上の伝統があるのです。 |
甘木の町が安長寺の交易市を土台として発展したものであれば、其の町の道路も、安長寺を中心として伸びて行くことは当然のことであり、甘木の町の道路はすべて安長寺を起点として、作られていました。 |
大分県玖珠郡万年山連峰左翼の突端に位置する「切株山」は大楠の切り株の跡といわれ、其の超大楠が、切り倒された時に、振りちらされた無数の楠の実から育った子孫が、豊前・豊後・筑前・筑後の各地に生存していると言われています。 また、人の寝静まる丑満頃には、梢を手のように伸ばしては、触れ合うようにするとも、いい伝えられています。 なお、この二本の大楠には、それぞれ、白蛇がすんでいると言われ、大楠の木の精としては、可愛らしい小さいもので、少し青味をもち、目は美しい桃色を呈しているそうです。 ―この話は甘木根記・豊後風土記などから引用しました― |
四重町の安長寺寄りの裏少路入口付近の屋敷うちに、一つの古い井戸が残されているそうです。 |
「安長寺縁起」に、「安長寺之境内昔方八町也」と書いてありますが、この数値はメートル法に直すと、○、七六二平方キロ米です。こんなに境内が広いお寺は滅多にありません。 |
昔の大寺院は荘園。寺領・采邑・采地、などの名称で、寺に属する土地を持っていました。 |
安長寺縁起によると、「安長寺の子院二十三あり、塔頭十一、末山、十二を数う、但し時代は分明ならず」とあります。 |
安長寺大伽藍の建立を発願した甘木安長は末山十二寺の建立も企画しました。十二寺の敷地を選定するに当たって、その首座となる第一の霊地として捜したのは、安長寺本院から距離的にさほど遠くない場所で、清浄無垢な清水が豊富に湧きでる場所でした。 |
安長寺本尊の霊験のあらたかさを伝える物語のひとつに「飛地蔵尊」の話が有ります。 |
仏像についてのいい伝えに西泰寺の木仏の話があります。安長寺の末山の西泰寺は七日町あたりにありましたが戦国時代兵火で消失しました。その後祇園寺がその付近にできましたがその祇園寺の社僧達首座の代のことです。「せいたいじ」という字の田んぼの中に闇夜になると時折不思議な霊光が立つのを見たものがあり評判となりそこを調べて掘り返すと不思議にも土に塗れた仏像が現れたのでこの木仏を龍泉寺に運び霊水で土砂を洗い流して清めると実に有りがたい相好の釈迦木仏であったので丁重に祇園寺に奉遷し安置したと言うのです。 |
甘木安長の重臣として南部から随従した「江下兵衛」という人が居ました。この人は果てしもない竹林の中に寒水が多量に湧出している大湧泉を見つけその傍らに居住しました。 |