二十一 善祥院

 安長寺十二の末山の一つである善祥院は安長寺の西側高原町に ありました。安長寺の衰微とともに衰微し荒廃していましたが山 陽道随一の霊仏といわれる安芸の国竹原の薬師如来を勘請してから霊 場として復興しました。このような由緒ある霊仏を勧請したので遠近 の信仰があつく、様々の霊験談が旧記や口碑に遺されています。この ことについての文献は次の通りです。
 「甘木雑記」或翁日芸州竹原薬師勧請故名竹原町薬師海道第一之 霊仏也往来船旅無不竒願云々

二十二 江戸時代の安長寺

 安長寺は戦国時代の災禍を受けて廃墟となりました。そしてそれ以 来急速にその規模を縮小しました。
 豊臣秀吉は九州を平定すると天正十五年−千五百八十七年−に小早 川隆景を筑前に封じました。
 隆景は文禄四年−千五百九十五年−家臣の中村市左衛門に命じて安 長寺の地蔵堂を再興させました。
 やがて徳川氏の時代となり、筑前領主黒田忠之の代に、家臣の伊丹 九郎左衛門が領主の命により仏堂の葺き直しをしています。安長寺が 諸侯権門の保護を受けたのはこの二件のみでありました。
 江戸時代における安長寺の経済は、唯一の伝統をもつ痘瘡の咒符を 発行して、寺門を維持してきたわけであります。
 元文元年−千七百三十六年−一月七日甘木宿の大火で安長寺も類 焼し地蔵堂のみを残し他は全焼しました。記録によりますと、こ の日は四日町より出火し四重町、七日町、八日町、水町、裏町、馬 場町、上新町、山領町まで延焼し当時の町並みの七割民家五百二 十二件 土蔵二十棟 社寺七宇におよぶ被害が出ています。
それより二十四年後の宝暦十年−千七百六十年−八月二十二日再度 甘木宿の大火があり、この時は馬場町を起点に十ケ町が延焼しました。
 この大火により安長寺は又もや灰塵となりましたが、地蔵尊脇立とも に無難であったのは不幸中の幸であったと言えるでしょう。
 この大火により寺域は荒廃し一時は無住の境遇にまで陥りました が第十一代方丈三峯宗益禅師の血の泌むような努力によりわずか 乍らも再興し寺門の法灯を維持することができました。
 文化十二年−千八百十五年−には聖徳太子堂が建立されたというこ とであります。
 千年にわたる長い歴史をもつ安長寺にはその歴史にふさわしい古 文書や古記録が沢山存在していたそうですが元文 宝暦の二回の 火災により焼失散逸したことは極めて残念なことであります。
 ・参考 博多承天寺に十一代宗益禅師の書片が残されており次の 様に書かれているそうです。
 一、国君継高公御代号功崇院殿 緒君痘蒼の砌 地蔵尊御守 左 京様 平八様 御姫様 痘蒼流行に付御札献上 根本忠作殿 御取次 乾叟代
 一、四十ケ所巳前 江州堅田領主堀田備後守殿 夢想被相受 江 戸より当時に痘瘡御守指上侯様 御国に御頼来侯由 竹中良 太夫殿御取次に付御祈祷 森備後守殿に指上申し候云云
 右之記録等二十筒斗巳前類焼仕候 巳上
 寛延四年二月 甘木安長寺 益 首座

二十三 甘木鑪(たたら)

 昭和の中頃まで甘木に二つ鑪がありました。鑪というのは鉄を素 材として各種の機器を鋳造する工場のことです。鑪は明治以降はどこ でも自由に設置できましたが、旧藩時代の鑪は幕府の命によって設 置場所の制限があり福岡藩では五ヶ所、秋月藩では一ケ所と定められ ていました。
 福岡藩の鑪は博多で四ケ所−山花、磯野、深見、柴藤−と甘木の水 町で一ケ所−上野−計五ケ所、秋月藩では立石の五軒屋で一ケ所−藤 野−となっていました。両藩合わせた筑前之国の六つの鑪は、福岡市 で四ケ所、甘木市でニケ所あり、他の場所には全く皆無の状態でした。 しかも福岡藩と秋月藩の鑪が目と鼻の先−水町と五軒屋−で競い合っ ていたのですから、其の活気はまことにたいしたものでした。
 筑前に六つしかない鑪のうち三分の一にあたる二つの鐘が、この 狭い地域の中にあったということは、一見して大変奇異なことし思われ ます。
 しかしこれは決して不思議なことではなく、そうなるためには 永い歴史的な積み重ねが、そのような成果をはぐくんできたのです。
 遠く弥生の時代、この地域は我が国で最初に稲作が行われた所 で、邪馬台国甘木説−拙著「邪馬台国と天の安川」参照−の舞台であ り、其の時代から鑪があり地名としても残されています。
 しかし鑪による産鉄鋳造の技術がこの地域独特のものとして位置 付けられたのはやはり安長寺の創建と深い関係がありました。
 このことについて、史家故緒方伝先生は次のように述べておら れます。
 鑪とは元来足で踏む大型のフイゴのことであるが、昔は製鉄場 鋳造場などを鑪とよんだ。
 甘木に於ける鑪の歴史は古く甘木を開発した甘木安長が大和の 国から随伴した鋳造師にはじまるという。
 このことは「安長寺縁起=南部より追随せし諸工」の条に明記さ れている。
 その鋳造所の位置は七日町金光教会所の北方付近と推定される。 鋳造製品は甘木の交易市で取引される目玉商品であった。
 さて「南部より追随せし諸工」とはどんな人達だったのでしょうか 安長寺縁起には
 安長矢田の地蔵尊を勧請せしとき南部より地蔵尊に従いて来たり し技工あり。土器師、陶工、鋳鎔師、匠師、瓦工など是也。是等 は南都建築の文化爛熟期を経たる技手にて、為に地方の技巧に貢 献せしこと少なからず。」と記述されています。
 安長寺縁起ではこの時追随した技巧の子孫のことについても次の様 に触れております。
 元禄七年徳峯禅師本尊修繕のため京都に赴くや鋳鎔師土屋氏招 かざるに来たり迎え 仏輿を昇きて、秋月古処山坂に至る 帰路 も亦かくの如くす 古里をを忘れざるの意なりと
 また「甘木煙草種」には
 −土器師は鞍崎氏馬場町に住む 焙炉師尾篭氏七日町に住む この二家は矢田村より地蔵尊に縦って 来たりし旧家也−と記さ れています。広辞林には焙炉の頃はなく焙焼炉の頃があり〔製 錬に供する諸種の硫化鉄鉱を焙焼して酸化鉱物とする炉のこと〕 となっているので尾篭氏も金属関係かと解されますが、七日町 に現存し甘木最古の家柄というひかり化粧店の尾籠敏男氏は 「私の家は先祖代々瓶の製造にあたり、向かいの分家の美容院の 方は瓦の製造をし、共に名字帯刀を許されて居ました。」と言っ ています。
 「甘木煙草種」の記述と尾籠氏の実歴の食い違いについて古老数氏に おたずねしておりました處、町の文化人の一人、上野義雄氏から次のよ うな書簡をいただきました。
 −過日お尋ねの七日町尾籠家の件、先人の語りによれば尾籠家は地 蔵尊についてきた、祭祀用土器製造の工人と聞いていましたので、さっ そく市史の「甘木煙草種」を調べて見たところ、まさに貴殿仰せのと おり「焙炉」となっており、小生が先人より聞き及びたることと相違 あり。小生の推考によれば、素焼の土器「焙烙」ホーロクの間違いで はないかと思います。「焙烙」の語は現代の漢和辞典にないので小 生も勉強不足ですが、一寸気がついたままを記します。−
 「註」 上野氏の解釈なかなか的を射止めたものと思います。

二十四 蘭州禅師

 第二十二代住職蘭州禅師は安長寺歴代住職の中でも傑出した名僧で あったといわれています。蘭州禅師が安長寺の法灯を継承したのは明 治二年七月九日のことでした。この年は二年前に大政奉還や王政復古 が行われ葵は枯れて菊が栄えるための諸改革が急激に進行し、世情 不安な日々が続いていました。
 このような情勢の中で起こるべくして起きたのが廃仏棄釈の運動で す。
 このようなありさまの中でさらにこの動きに拍車をかけたのがこの年 二月二日に公布された神仏混肴禁止令です。過激派の人々はさも当然 のように寺院を襲撃し本尊や寺宝を棄却し中には寺僧に対し暴虐の行 為に及ぶ者もありました。
 蘭州禅師は無私無欲、てんたんとして世俗に超脱し、禅僧として 典型的な名僧でした。無私無慾の高潔な禅師の日々の言動は檀家 信徒はもちろん一般の人々にも大きな感銘をあたえ、廃仏棄釈の風 調の中にあっても、蘭州禅師の周囲は尊仏拝釈の毎日が続けられて いました。
 このような禅師の高徳は、甘木朝倉両筑はもとより、筑豊肥六国 の人々から絶大な尊信を得るようになりました。禅師はその高徳ゆえ に太宰府神社の守護寺であった太宰府威徳寺の寺務摂行を兼務する ことになりました。威徳寺に着任して見ると、禅師が永年徳を培って きた安長寺とその周辺の雰囲気とは全然異なった雰囲気が存在してい ました。太宰府周辺の廃仏棄釈の動きは日をおって昴まりをみせ、こ のまま放置できない差し迫った状況になってきましたので、関係者と 合議し、太宰府神杜内陣に掲げられた仏体が心なき人々によって汚 されないように、これを安長寺に奉遷して奉仕することになりまし た。
 このことによって仏体の損壊をまぬがれることができました。こう して幾百年間太宰府神杜の本地として崇拝されてきたインド製の観音 仏は、それ以降安長寺によって保護されることになりました。
 蘭州禅師の無私無慾てんたんぶりについては、次の様な口伝が あります。
 −口伝−「しまえたや」
 ある年檀徒の衆や町内有志の人達によって頼母子講を盛るこ とがありました。連中のたっての勧めによって禅師も一口だけ 加入しました。禅師には幸か不幸か比較的早めに当選したので 期せずして大金が手に入り、かえって迷惑のようすでありまし たが、しばらく考えた末「この講金は使わずにちゃんとしまって おいて毎月の掛け金を滞りなく出される様にするに限る」と悟 りました。その後毎月毎月の講会にはきちんきちんと講金を 済ましてきましたが、当選後には掛け増し金がつくので満期前 にその貯え金はことごとく無くなってしまいました。禅師は「あ あこれでさっぱりした。面倒な厄介払いをした」と思っていま した。やがて翌月講会の日になると世話人が「和尚様講金を戴き にまいりました」と催促にきたので禅師は「おやおや」という ような怪訝な顔をして「わたしの講金は、もうしまえたや」と いったそうです。
 −補足−蘭州禅師のこの逸話はわが郷土において口伝えされ てきたものです。実に含蓄のある話材でありますがこれに補足 説明することはかえってこの逸話を冒涜する恐れがありますので 差し控えます。しかしわが郷土の祖先がこのような逸話の心に共 鳴し、玩味しつつ語り伝えたことに敬服致します。この口伝は故 緒方先生が記録されていたものです。

二十五 甘木饅頭と地蔵飴

 安長寺の初市の頃で、往古の甘木の町の活気に満ちた盛況ぶりを紹 介した中で、甘木饅頭と地蔵飴が甘木の名物として売られていたこと を述べましたが、このことについてもう少し補足してみたいと思い ます。江戸時代の中期、安長寺山門の向かい側現在白水ビルが建っ ている場所に大坪七之助という人が地蔵祭りの土産として「地蔵飴」 という飴菓子を売出しました。この飴菓子は従来製造されていた水 飴や引き飴、飴玉に改良加工した新製品であったため、たちまち人気 商品となりました。
 地蔵飴は十センチ位の棒状の飴に飴の芯をいれたものです。じつは この飴の芯は当時の企業秘密というべきものでした。と申しますのは 当時我が国で砂糖−当時の砂糖は黒糖−が生産されたのは薩摩紀伊 と三奈木〔現在甘木市〕のみであり、たいへん珍しい品物でした。 この三奈木砂糖と水飴と黄粉を煉合わせたものを芯にした棒飴はたち まち食通の人気を魅了しました。大坪氏はさらにもう一つ「甘木饅 頭」を発売しこの商品もまた人気商品になりました。時移り二十世 紀になり地蔵飴は大坪氏の親戚である山本氏に引き継がれ昭和の中. 頃まで安長寺前で販売されていました。この店はその後三輸町栗田の 国道沿いの地に移転、三松堂十五代当主山本紘一氏の手で「甘木飴」 の名で続いています。
 一方甘木饅頭の方は、これも大坪氏の親戚である白水氏に引き継が れ、白水ビル北隣で昭和初期まで売られていましたが、当主白水梅雄 先生が教職員、議員、各種機関の役員などに就任され、継続困難と なり廃業しました。実はこの白水先生は甘木の古老きっての生き字引 であり、本書の刊行についていろいろと御教示賜ったこと深謝する次 第です。
 大正から昭和初期にかけて、太刀洗飛行場が整備され、陸軍飛行部 隊が増強されるに伴い、甘木の町は軍都の色彩を濃くしていきました。 その時代の甘木饅頭のチラシには次のように書かれています。
 甘木町と甘木饅頭
 甘木町起因の甘木山安長禅寺内の地蔵菩薩の形貌を彫刻せる満米 上人−満慶上人−の神秘な挿話の中に、閻宮阿鼻城より人界に帰り て白米を取り去れば、盡くことなく時の人満慶和尚を満米和尚とも いい当時の高僧たり。この僧彫刻せる一刀三体の地蔵尊を寺内に安 置し疱痘諸病平癒祈願のため参詣するもの夥しく、よって吾祖先は 満米の米に因みて爾来−明らかなこと三百五十年−この名物甘木 饅頭を創製し家伝として今日に至るもの。甘木郷土史にては古きも のにして甘木饅頭と呼ばはり、饅頭に甘木の名を古代より弊店使用 し、他店の模倣追髄を許さざるものなり。願わくば弊店謹製の饅頭ご 愛顧の程伏して懇願する次第。
 飛行隊 高射砲隊 所在地 福岡県甘木町地蔵前
 元祖 甘木饅頭店舗 白水米吉 謹白 電話百二十五番
 昭和二十年代になり、井上という女性が山門の北側で地蔵饅頭 の名で売出しましたが、長くはつづかなかったようです。
 現在甘木の菓子鋪で安長寺に因んだ菓子を製造販売している店舗は 次のとおりです。
 床島菓蔵屋 あさひ飴 −地蔵飴をさらに改良したもの−
 亀屋菓子鋪 安長寺饅頭 甘木山饅頭
 宮田菓子鋪 ばたばた −どらやき−
 花房屋菓子鋪 ばたばた豆太鼓煎餅 −郷土玩具バタバタを模したも の−

二十六 安長寺の法系

 先にも触れた様に数次におよぶ火災により寺の古文書一切が焼失し、 天正十四年に秋月種実が島津義久とともに岩屋城を陥として高 橋紹雲の霊を弔った時、衆僧五十人による大施餓鬼をしました。その 時施餓鬼の席で法系を開かれ、それ以来新しい法系が確立される事に なりました。その時からの法系は次の通りです。
 前承 勧請 甘木安長
 開創 満慶−満米−上人〔法相宗〕 奈良時代
 改宗第一祖 蔵山順空勅賜円鑑禅師 −博多承天寺開山 聖一国 師第四世の法孫−
 訂後 1代 愚渓  2代 東明  文書 法系などを整備
 3代 太甫  4代蘭淑  方文 香積 鐘堂を造
 5代 儀天  6代栄州
 7代 雄峯  大門を修建する
 8代 泰嶺  9代 徳峯 天文の火災あり
10代 徳岩
11代 乾叟 先代逝去後無住となり山門荒廃
12代 三峯 万事精励中興
13代 方山  14代 拙堂
15代 享道  16代 霊泉
17代 慧潤  18代 興峯
19代 大清  20代 耕州
21代 知豊  22代 蘭州  尊仏拝釈の徳僧
23代 憩堂 本尊修飾
24代 実道
25代 洞雲 納骨堂建立
26代 黙香@山門修復
 註〜〜〜大正十二年刊、昭和四十三年再版の「甘木山安長寺考」は 記載には欠落があり、二代分の格差があります。本書取材のため勝又 総代と著者が故洞雲師子息古泉浩道氏宅にて調査中に判明しました。

二十七 安長寺と牛馬

 馬場町の地名のいわれについて、「方八町に及ぶ大伽藍であるから 寺の安全と秩序を維持するために僧兵がいたし、その僧兵を訓練する ための馬場があった。」とするのは諸旧記の記述しているところです。
 しかし甘木記聞では「古ここに名馬ある 千里を行きて千里を帰るに 羽ありて飛ぶが如し 故に場羽となづく。」としています。この二つの説 については議論が別れていましたが、安長寺檀家総代の勝又利一氏 は「馬場があったから名馬も育ったのでしよう。どちらも正解ですよ。」 と述べています。
 まだ安長寺の寺域が広大であった頃、この馬場を中心にして陰暦の 四月八日に馬市が開かれていました。
 馬市の開かれる日には牛馬健康祈願がおこなわれ、参拝がおわる と祈願済みの笹をもちかえる風習があり、「牛が病気した時にこの笹 をたべさせると霊験あらたかである」といわれていました。
 安長寺の馬市には、装飾した牛馬による絢爛豪華な牛馬道中があり、 全国的に高名で、甘木朝倉は元より三井浮羽嘉穂あたりからも御参り があったということです。
 馬市の日には牛馬の背に「さざる」という、笹と猿形のアイドルをぶ らさげた郷土玩具をとりつけて行進していましたが、馬市の消滅とと もに「さざる」も姿を消しました。
 「さざる」は綿を芯にして赤木綿でくるんだ物らしく、その作り方 を知る人も少なくなり、七日町の上野緑さんなど、その時代に町内で 育った少数のかたがただけになりました。
 安長寺の寺域がせまくなったことや、品評会などのイベントが加え られたことなどにより、安長寺の馬市は中止され、これに替わって 持丸の愛獄神社一おたけじんじゃ一で引き継がれましたが、この壮 麗な風物詩も昭和の始め頃には姿を消したということです。

二十八 安長寺の観音様

 臨済宗の勤行式では、本尊誦経としては、般若心経、供養誦経として は普門品経が主誦の経とされています。普門品経というのは観世音菩 薩の功徳について説いたお経です。
 観世音菩薩〔観音様〕は大慈大悲をもって人々を救済することを本願と する菩薩で、迷える人々を救済するために、種々の姿になります。そのた め千手観音・如意輪観音・馬頭観音など種々の名で呼ばれ信仰されています。
 観世音菩薩の功徳を当世流に表現すると、ヒューマニズムの視点から社会 福祉を実現して、人々の幸福をはかるということになるのではないでしょうか。
渡宋仏聖観世音菩薩
渡宋仏聖観世音菩薩
本当に有り難い仏様であります。
 安長寺にはこの有り難い観音様が五体祭祠されています。
 この内もっとも占くから祭祠されていたのは「聖観世音菩薩像」で、 足利時代の作と云伝されています。
 明治維新の時代に廃仏棄釈騒動のさなか、太宰府天満宮から移管さ れた「渡宋聖観世音菩薩像」はインド製で宋を経由して入国し四百年 余りにわたり太宰府天満宮の守護仏として祭られて居たものであり、 その移管のいきさつについては「二十四蘭州禅師」の項で述べたとう りです。
 当時この渡宋仏と同時にもう一体の観音像「浄堤観世音菩薩像」が 同じく太宰府天満宮から移管されています。作者及び時代は不詳です が、在所世代を越えた威徳を備えた仏像です。
 これら三体の観音像はいずれも内陣に安置されていますが、もう一 体は「救世聖観世音菩薩立像」で、境内西側の台座の上に立てられて 居ます。
救世観世音菩薩
救世観世音菩薩
 この観音像は高度経済成長により人々の暮らしが向上した反面、日 本人の精神的荒廃が激しくなり、世相混沌とした状況が生まれたので、 「いささかでも教化の役に立てたい」と二十五代洞雲師によって発願 されました。しかし師はその完成を見ることなく他界されました。
 若干の無住期の後に着任された二十六代黙克tは、前師の志を継ぎ、 ついに昭和四十九年七月にこれを竣工させました。
 この像の設立趣旨については台座裏面の碑文に詳しく説明されてい ます。
 さらにもう一体の観音様は石仏で、この立像の右側にある石仏堂の なかに他の石像とともに祭られています。
 この石仏堂の横には秋葉山を祭った堂があります。
 弘法大師像は、本堂右側にある弘法大師堂に祭られています。この お堂は巡礼霊場の札所になっています。
 境内の北側の奥まった所には、境内摂杜として稲荷神社が祭祠されて います。

二十九 太子堂

 安長寺境内にあるたくさんのお堂の中で一際高い格式を備えている のは、稲荷神社と弘法大師堂の間にある「太子堂」です。
 太子堂には聖徳太子をお祭りしています。
 聖徳太子は五百七十四年に用命天皇の皇子として生まれた六世紀か ら七世紀にわたる飛鳥時代の政治家です。幼少時から英明で推古天皇 の摂政として国を治めました。
 冠位を改革して新しく人材の登用をはかり、十七条の憲法を制定し た他、すすんで大陸の文化を移入し、仏教を広め四天王寺や法隆寺な どを建立しました。また国史の編さんや暦の制度などにも尽くされま した。一万円札には太子の肖像画があります。太子は六百二十二年に 四十八才でなくなりました。
太子堂
太子堂
 十七条の憲法第一条「和をもって貴しとなす」は平和主義者の太子 が平和国家建設の考え方を示したもので、太子は外国の文化をどしど し取り入れ、各地に寺を建て、すべての人民が仏教を信じ、平和な暮 らしができるよう努力しました。安長寺に太子堂をお祭りしているの は、ただ単に開基時に太子ゆかりの法相宗であったというだけでなく、 度重なる戦火で、寺も町も共々に、焼かれ苦しめられた甘木の町の 人々のために、寺是として平和の祈願を続けてきたことによるもので、 この寺是は、これからも永く持続されて行くことでしょう。
 安長寺の太子堂は細木を組み合わせて一本の釘さえ使っていない芸 術作品で、古来希少の文化財であります。この希少な宝物的建造物を 陽晒しにすることを恐れた先人は、この太子堂を守るための掩蓋用の 建物を建てました。従ってこのお堂は内堂がありその中に太子が安置 されています。
内堂の建立年代は不明ですが、外堂は光格天皇の文化十二年〔18 04年〕に建立され、その後何回かの改修が施されて、今日に及んで います。

三十 女子挺身隊

 太平洋戦争末期の昭和十九年一月、当時軍隊に入らず、金銭出納、 用務員、給仕、番頭などの不急職場にいた男子を、根こそぎ軍需用工 場に動員しました。そしてその代替要員として十四才から二十五才ま での未婚女性が勤労奉仕要員として徴用されたのが女子挺身隊です。
 白鉢巻モンペ姿で工場に動員された人は県下で千五百五十人で、そ の三分の一は親元を離れ寄宿舎に入り青春を国のために捧げました。
 甘木市、三輪町、夜須町、大刀洗町にまたがる大刀洗飛行場〔約十 五万平方米〕、そこに駐留する多くの飛行部隊、陸軍飛行学校、航空 廠、航空教育団、航空機技能者養成所、北大刀洗飛行場、航空機制作 所、陸軍病院、軍需品格納施設などの軍事施設群。昭和十九年一月十 九日大雪の中。この軍事施設にも千人以上の女子挺身隊が投入されま した。
 甘木の町の大きな家や寺院はこの女性たちの宿舎として割り当てら れました。
 安長寺にも三十人余りが入所し、寮長〔二十五代洞雲和尚〕寮母 〔時津(旧姓星野)ふじ子さん〕らがその世話を担っていました。時 津さんは当時を回想して「本当に大変な時代でした。十四、五才のこど もさんも何人かいました。みんな緊張した毎日でした。」と言っており ます。
 当時飯塚から動員された寺西(旧姓秋松)マリコさんは、その著書 「女子挺身隊甘木日記」の中に次のようにしるして居ます。
 ○−昭和十九年三月二十五日−今日は防空壕掘り〔安長寺の境内〕 せっかく月二回の公休日、いやだなあと思ったけれども自分のためだ と思って一生懸命掘った。
 〇−昭和五十七年十二月名古屋にて−私は昭和十九年一月十五日飯 塚市での編成による第一次女子挺身隊として、大刀洗航空機製作所へ 入れられ、今も懐かしい甘木の町へ参りました。男の方と変わらぬ厳し い軍事訓練で泥にまみれたり、重いハンマーを頭上高く振り上げて、 連続的に振り降ろすタガネ打ち訓練の恐ろしかった事、何人もの娘た ちが指を潰しました。凍り付くようなお寺の廊下での座禅、そしてい つものお腹を空かせて居た毎日。空襲のたびに防空壕に走り込み、毎 日が睡眠不足だった苦しさなど、書けばきりがありませんが、それら に耐えられたのは翼の生産に生命をかけていた緊張感が有ったからで あろうと思います。
 〔注〕この項は仲山路石、時津ふじ子、淵上尚美の諸氏から取材 しました。

三十一 肝木

 安長寺参道右側、鐘楼と集会所の間に花壇状に区切られた一面があ り、そこに甘木あたりではあまり見かけない細い木が植えられて居ま す。
 この木は「肝木(かんぼく)」という木です。この木はスイカズラ科の 落葉灌木で高地や北陸、東北地方の山や野に自生します。高さ二米から三米 花は一見紫陽花に似ていて、初夏花序の中央に多数の白色五辮の小花 を開き、その回りを大型の装飾花がとりまいています。材質は白くて柔ら かなため楊子の材料などに使われています。
肝木
肝木
 安長寺境内にあるこの肝木の木には一つのいい伝えが残されています。 遠く奈良時代当山開基の時、大和より来甘された開創の師満慶和尚が突い ていた杖をさかさに立てると、芽が出てこの木になったということであります。
 以来千余年にわたり大事にされて今日に及んでいるわけで有ります。
 従ってこの木は既述の大樟とともに安長寺の霊木として大切にされています。

三十二 甘木町千年祭

 昭和二十年八月に太平洋戦争が終結し、連合国軍による日本国占 領がはじめられ、日本国民主化が始まりました。そして昭和二十二年 四月に民主々義の理念に基づく始めての選挙が実施されました。四月 五日に県知事と町村長が行われたのを皮ぎりに参議院、衆議院、県議 員、町議員のすべてが新しいルールによって改選されました。
 この選挙で最初の公選町長に就任した斎藤仙太郎氏は大変スケール の大きい方で、思い切った政策をどしどし実行しました。昭和二十五 年の正月、彼は「甘木の町が千年以上になっているのに、千年祭があっ てないので盛大にして町の活気を呼び起こそう」と提案し、その年の 四月九日にこのことを実行しました。当日は商工会をはじめ各種機関 団体が町を挙げてのイベントを展開し、方々から人々があつまり、町の 中は芋の子を洗うような混雑になりました。
 当日甘木町主催による千年祭の式典が甘木町発祥の地である安長寺 において執行されました。
 この日斎藤町長は、安長寺門前の市が、定着して門前町となり、先 人の努力の積み重ねによって、今日の甘木町になったことを称え、 「この町をさらに発展させて必ず甘木市に昇格させたい」との決意を 表明しました。そしてそれから四年後の昭和二十九年四月に甘木市が 誕生しました。
 甘木町主催による「甘木町千年祭」のプログラムが終了した後、会 場は安長寺主催による安長寺創建者「宝珠院遠山安長大居士法要」に 切り替えられましたが、この千年祭は「市制をめざす町民の総決起大 会の役割を果たした」といっても過言ではないでしょう。
 註 この項は当時甘木町議会議員であった後藤茂規氏と白水梅雄氏 から取材しました。

三十三 大本山東福寺について

 安長寺が臨済宗東福寺派の寺院であることは五、安長寺の改宗の項 で述べましたが、この派の大本山東福寺は京都市東山区本町に在りま す。
 摂政関白であった九条道家が入唐僧の円爾弁円を招いて開山し、藤 原氏一族の崇敬によって栄えていましたが、応仁の乱で大半を焼失し ました。
 その後秀吉は寺領千八百石をよせて回復させました。
 明治に入り上知により多くの寺領をなくし、現在の寺域は六万坪に なっています。
 本尊は「釈迦牟尼佛」、教典としては、楞厳呪、大般若経、金剛経、 大慈心陀羅尼経、普門品経などであります。
 教勢としては、傘下の法人数三百六十二、信者五万三千四百人となっ ています。
 教義は「仏祖的の心印を拈提して、参禅弁道によって、向上の大事 を究明体得させ、あまねく衆生に安心立命を与えること」にあります。
 東福寺派の信徒の会を「慧日会」といいます。これは普門品経の中 の一句「無垢清浄の光ありて、慧日、諸諸の闇を破り、能く災の風火 を伏し、普く明らかに世間を照らす」から出典したもので「慧日」と は悟りの知恵のことです。従ってごの偈文の意味は、「悟りの知恵が 煩脳の闇を光明の世界に替えていく」という事になります。
 東福寺管長更幽軒福島慶道猊下は、「慧日」について、次の様に述 べられています。
 (たとえ、どんな小さな「慧日」でもよい。それは必ずや一遇の 闇を照らします。そういう努力が、地域社会を、日本を、そして やがては世界を明るく照らす原動力となって行くのです。
宗教心をもって、仏教徒として、東福寺派の檀信徒として、よ り良き日々をお過ごし頂きますよう、心から祈願いたします)
 (御開山聖一国師様「坐禅論」妙語)
 一時坐禅すれば、一時の仏なり。一日坐禅すれば、一日の仏なり。 一生坐禅すれば、一生の仏なり。
 註 Tel 075-531-5207

三十四 祭り

 安長寺で年間行事として行われているお祭りは次の九つです。
 一月一日〜三日 大般若祈祷
 元旦の早朝始められ、その年一年間の無事息災が祈祷されます。法 要終了後祈祷済の呪符が檀家、信徒参詣者などに配布されます。
 一月十四・十五日 初市祭典
 山門前に多数の露天商人が門前市を復元し、商店街ではこれに合わ せて大売出しをします。境内では郷土玩具バタバタの販売・札収め・ 福餅撒き・鏡開き・どんどん焼き・大般若法要などが行われています。
 二月二十二日 太子祭り
 聖徳太子のご命日に当たり、太子を供養すると共に太子の悲願であっ た世界平和と民主安定を祈願致します。満十五才のお子様の立志祈願 の日としても参拝されています。
 三月二十一日 彼岸中日法要
 彼岸法要のあと本山教師による彼岸説教会が行われます。
 六月九日 開山忌
 改宗第一祖蔵山順空勅賜円鑑禅師の法要をします。安長寺の創立記 念日に相当するものです。
 八月八日 盆施餓鬼会
 一山の僧徒二十名余りによる絢爛壮麗な迫力ある大法要が実施され ます。
 九月二十三日 彼岸中日法要
 彼岸法要のあと檀家信徒会の会合が行われます。
 十一月六日 祖師忌
 前住職の命日法要に合わせて、開山他歴代住職に報恩謝徳の回向を いたします。
 十二月三十一日 年越供養
 この一年振り返り、報恩感謝の祈りを捧げます。除夜の鐘の公開放 も実施しています。

三十五 山門

 安長寺の山門は長い歴史を象徴するにふさわしい、どっしりとした 佇まいを見せています。
 現有する山門は安政五年頃に建て替えられたもので、建齢二百十五年に 及びかなり老朽化して居ましたが、第二十六代住職黙腰a尚の手で改修 が施され、平成三年三月二十四日に山門落慶大般若法要が修法されま した。この山門正面の山号額に「甘木山」と書かれて居ますが、これは 仙轟齪^、鮎眼薬、捨小舟などの著者で、博多聖福寺の住職仙腰a尚 の書であります。
 仙腰a尚は寛延三年にうまれ、天保八年八十八才でなくなりました が、今日なお博多随一の文化人として尊敬されています。

三十六 茶道場

 昭和五十年に黙腰a尚が着任されましたが、和尚は生家の寺で茶道 に親しんで育ち、大学を出てさらに七年の歳月を茶道研究に費やし実 績を活用するため、茶道場を建設しました。
 この茶道場は建坪五十坪、昭和五十二年一月に竣工し、表千家福岡 長生会の主道場となっています。

三十七 鐘楼と鐘「テンプルベル」

 太平洋戦争のさ中、軍需資源を確保するため、軍の指導者は、民間人 が所有するあらゆる資源を、供出という名目で徴発しました。寺院の 祭祀用具も例外ではなく、安長寺の梵鐘も半鐘も徴発されました。
 戦争が終わってもしばらくは飢餓の時代が続きましたが、食料事情が 落ち着いて来ると、人々は心の問題についても考えるようになってき ました。
 当時公民館の制度が発足しましたが、初代甘木町公民館主事となった緒 方伝先生は公民館で郷土史講座をはじめ、安長寺が甘木発祥元であること、 を強調しました。そのことが動機となって、町民の間から、安長寺に梵鐘 を復活させる運動が盛り上がり、各家庭から不要の銅製品が、婦人会の手 を通じて集められました。
鐘楼"
鐘楼
 当時水町にあった上野鋳造所で、これらを鋳崩して作ったのが、現 在の梵鐘です。(一の鐘)
 洞雲和尚の代に佐賀県小城町の寺が廃寺となり、その寺にあった半 鐘を譲り受けたので、梵鐘も半鐘もともに揃うことになりました。(二 の鐘)
 昭和六十年頃市内安川町の明元寺の佐々木副住職からの連絡で供出 した半鐘が戻ってきました。この鐘は、一旦供出された後どこかで迷 子となり、安川村火の見櫓の半鐘として使われていました。新システ ムの採用で不要となり、消防団詰め所の倉庫に放置されていた物です。 (三の鐘)
 このような訳で現在は三つのテンプルベルが安長寺で仲良く暮らし て居ます。

三十八 安長寺和賛

 仏の園の過去遠く 奈良の時代安長は
 人界稀有の高僧の 満慶和尚刻みたる
 延命地蔵を勘請し 清浄潔地を選定し
 両筑平野の中央に 建し伽藍は方八町
 開きし寺は甘木山 安長禅寺古刹なり
 風雪星霜耐え乍ら 衆人護りて幾久し
 周年既に千を越え 信心すれば高功徳
 女人泰産身根具足 衆病疾除知恵聡明
 穀物財宝愛敬さえ 神明加護で収られ
 証大菩提慈悲深く 煩能解除至福あり
 親子兄弟夫婦さえ 薄縁不遇の人多し
 男女婚姻恋愛求め 世界巡り走るとも
 良縁なくば事不調 衆生福縁呼ぶ為に
 参れよ結縁地蔵堂 結ぶ縁の尊とさよ
 祈をこめし豆太鼓 福相童子愛らしく
 本尊地蔵中し子は 育つ子供の守り神
 子授安産平穏に  安全育児も健康躾
 学業成績受験まで 豆で音擦る福の神
 内陣祭祀の観音は 印度生れの渡宋仏
 四百年の永い時期 宰府の天神守護仏
 廃仏棄釈の其時に 甘木山に移りたり
 星霜すでに百五十 尊厳更に高まりて
 無垢清浄の光さし 衆庶の心洗うなり
 脱煩能の慧日もて 諸暗を破る菩提心
 平和国家の建設は 仏道普遍に始ると
 十七個条の憲法を いまに伝る太子堂
 一つ一つの細木は 組し御堂の奥深く
 人倫護法の御教が 幸福の園指し示し
 悟の知恵が煩能の 闇を光に替ていく
 千古の伽藍今も尚 不滅の光放つなり

三十九 明治以降の住職

「憩堂和尚」
 第二十三代憩堂和尚は明治の中頃から法系を継承しました。若い頃 から書道や山水画の勉強に勤められ、書家としてもかなり高名であっ たということです。
 体格がよく威風堂々とした態度で修行に励んできたそうで、その作品 は門前の白水家などに保管されています。
「実道和尚」
 夜須四十三島の中山家で出生しましたが、家庭の事情により甘木に 出て憩堂和尚の養子になって修行しました。大変戒律に厳しい方で 「奉仕是日課」の明け暮れで終身独身であったと言われています。 この方は茶道の師匠としても知られております。大正十一年に法系 を継承されたとき、和尚の友人島田寅次郎先生が祝いとして「安長寺 考」の稿を贈ったといわれています。和尚はその後博多承天寺内の天 与庵住職となり茶道場「吹耳閣」の創立と運営に当たりました。
「洞雲和尚」
 宗僧郡で生まれ、京都禅門専門学校に学び道林寺で修行しました。 大正四年に福岡市油山慈光院十九代の住職となりましたが、大正八年 にインド留学のため退山しました。大正九年粕屋郡志免町富好庵の住 職になり、その後昭和八年に安長寺二十五代の住職となりました。 昭和二十五年に開山千年祭を執行し、三十九年には老朽化した旧内 陣を取り壊し、翌四十年その跡地に納骨堂を建立しました。戦中戦後 のインフレ時代の寺院を維持していくために、大変苦労され、晩年世 相の乱れを憂い救世観音立像の建立を発願されましたが、志半ばで昭 和四十八年十一月泉下の人となりました。
「黙腰a尚」
 昭和二十二年二月福岡市東区で出生、花園大学で禅学を専攻、卒業 後三年半久留米梅林寺で修行、さらに京都に赴き表千家掘内長生庵に て茶道の奥義を極めました。昭和四十九年安長寺住職に推挙され、五 十年に着任しました。着任早々前住職発願の救世観音立像建立事業を 完成、次いで茶道場を落慶させました。
 また平成三年三月には老朽化した山門の改修を完成させています。 茶道表千家家元の信望も高く、福岡長生会長に推されています。

四十 安長寺に尽くした人々

 過去一千有余年永い安長寺の歴史の中で、寺のために尽くした人は 沢山居たことと思われます。しかし残念なことに、それらの人々に関 する記録や伝承らしきものも残されて居ません。
従ってここでは著者が知り得た狭い範囲に絞らせていただきます。
島田寅次郎先生
私がこの本をかくに当たり、もっとも参考になったのは、大正十二 年島田寅次郎先生が書かれた「甘木山安長寺考」というパンフレット でした。読んでいるうちに島田先生の人間的魅力を感じ、先生のこと について調べて見たくなりました。先生は福岡市で小学校教師となり、 若年にして福岡高等小学校長の地位に進み、さらに福岡市立高等女学 校の創立に関与されています。明治四十三年に甘木に郡立実科女学院 が設立されるに及び、初代校長として赴任しました。校長として学校 発展のために努力し、ついにこれを県立朝倉高等女学校に昇格させま した。校長として在職すること十三年に及び、この間朝倉郡教育会長 としても大きな成果を上げています。専門教科は修身と歴史で、朝倉 郡の歴史についての研究は抜群の物があったと言うことです。甘木町 と安長寺の関係についての稿をまとめ、大正十一年に実道和尚が法系 を継承された祝いに、これを印刷して贈呈されました。この本がいか に貴重な役割を果たしたかについては重ねて論ずる迄もないことであ ります。
緒方伝先生
緒方伝先生がお書きになった「甘木風土記」は甘木の各町内ごとの 伝承をまとめたものでありますが、どの町の項目にも安長寺との関わ りが随所に出てきます。この本を読むと甘木の町は安長寺から発展し たのだということが、よくうなずけます。緒方先生は甘木朝倉地区で 小学校に勤めながら、地方の民話や伝承を収集され、それが後日「甘 木市史」を編さんするに当たって大きな役割を果たしました。
先生は福田、蜷城、金川の校長をして昭和二十二年に退職され、そ の後甘木町公民館主事となり、郷土講座で町民を啓発し、一千年祭や 梵鐘献納のキッカケを作られた功績は、高山深海の類です。
林田守氏
常日頃から信仰心極めて厚く、昭和四十二年には私財を投じて結縁 地蔵尊の堂宇を寄進されました。また昭和四十三年には島田寅次郎先 生の「甘木山安長寺考」を自費で再刊し、寺に寄付しています。寺の 維持についても配慮され常に多額の金品を献納されています。
古賀木次郎氏
昭和四十八年、先代洞雲和尚の逝去により、寺が無住になったので、 寺の檀家と信者の依頼により、寺に住み込み、盗難、火災、の予防・朝夕 の権行に当たってきました。約二年間無住の寺を守り通した功績は大 変大きなものがあります。本当にご苦労様でした。
田辺正月氏
昭和時代の初期安長寺名物の郷土玩具「豆太鼓バタバタ」が廃絶し かけた時期がありました。この時郷土玩具研究家の田辺(旧姓渕上) 氏はこのことを大変憂慮して、人形師の田中與七師や商工会理事の高 山庄市氏らに働きかけ、この三氏が中心となり、昭和十一年に「甘木 山安長寺保勝会」を結成し、商工会とタイアツプして、「バタバタ市 豆太鼓復興運動」を展開し、これを見事に存続させました。郷土玩具バ タバタが、平成時代の今日なおその伝統を伝えているのは、同氏らの 献身的な存続運動の成果の賜物です。

四十一 結び

 安長寺についていろいろな角度から検討してみて言えることは、一 般的には檀家や信徒と寺院との関係で寺の運営が成されているのに対 し、安長寺の場合はちょっと違った物が感じ取られるということです。
 それは甘木の町が門前町として発達したことにその由来があります。 寺と檀家だけの寺という閉鎖的な関係ではなく、寺と檀家という縦の 関係プラス市民一般の出入りという横の関係のエネルギーが沢山いり こんでいて、大変開放的な雰囲気が感じ取られます。
 すなわち安長寺の甘木町か、甘木町の安長寺かという、もっとスケー ルのおおきい関係がこの雰囲気を譲しだしているのです。ただ単に お寺と檀家のお寺ではなく、市民全体の喜びや悲しみをスッポリと抱 え込んだお寺という感じが致します。それは千年以上の永い期間地 域社会とともに歩んできた歴史的な強い力の表現でもあるのです。
 このことをもっと端的にいえば「安長寺の歴史は甘木の歴史であり、 甘木の歴史は、安長寺の歴史である」からなのであります。
 これから先もこのたくましさをもって地域社会とともに益々成長 して行くことを念じてやみません。 〔おわり〕

あとがき

 檀家信徒総代の方々から執筆の依頼があった時、「私ごときが」と いう気持ちと「これは大変な仕事だ」という気持ちが半々で、はっき りした返事を保留していました。その後三年三月二十四日に「山門落 慶大般若法要に招かれ、参加致しましたところ、一山の衆僧による法 要の執行は、まさに感動そのもので、第二十六代方丈黙国T師の日常 の努力の結集を見る思いがしました。この法要に参じえた佳き日の感 動が、ついに執筆を決意させました。しかし資料の少なさ、執筆時間 の確保困難などで、なかなか思う様に進捗せず、一年の月日を経過し て、やっと予定の項目を埋めることができました。情報不足のため十 分でなかった点もありますが、曲げて御笑覧くださいます様懇願申し 上げる次第です。
 故郷の 音懐かしき豆太鼓 甘木の里は 心和やか
                          敏弘

安長寺物語の発刊に際して

              小川嘉夫
 私は前半生を教職員、校長、県視学として、朝倉、北 九州、浮羽、田川、福岡、三井、八女などの各地で、教 育および教育行政の任務に携わって来ました。この間に おいて私が信条として実践してきたことは、その土地そ の土地の地理、歴史。伝承、文化財などを大切にするこ とにより、人間としての責任感を培って行くことであり ました。ところがこのことが、我が国の植民地化を意図 していた占領軍によって公職追放の対象とされ、解職さ れました。
 一時は路頭に迷うような目にも合いましたが、五十の 手習いで始めた商人としての転換も、多くのかたがたの ご支援により株式会社小川商店及び小川水管理工業株式 会社として生き抜くことができました。その後講和条約 締結による再独立で公職追放が解除され、市議会議員、 商工会議所会頭、人権擁護委員会長、甘木市立図書館長、 中央公民館長などの公職を歴任しましたが、いつの場合 においても、かって教職時代から持っていた信条を持ち 続け実践してきました。
 甘木発祥の起源である甘木山安長寺のご由緒が発刊さ れると言うことで大変喜んでおりましたところ、平成三 年の台風により、安長寺が大きな被害を被り、出版計画 に支障ができたことを聞き及び、かつ寺院関係者からの 協力依頼もありましたので、私が教職時代からの信条実 践の一環として、出版に要する経費を負担させていただ くことにしました。
 因みに、この本の著者林敏弘氏は、私が中央公民館長 在任当時の公民館主事であり、そのたゆまぬ研究心がこ こに結実することを衷心より祝福致しますと共に、この 本が貴重な郷土資料としての役割を果たすことを期待し、 合わせて住職、総代、世話人のかたがたのご努力に敬意 を捧げて、ご挨拶と致します。

著者プロフィル

林敏弘
 一九二九年北九州市戸畑区にて出生。一才の時小 児麻痺後遺症。戦時教育令は身体障害者など軍事 教練不能者の中学進学を拒否。小学校卒業後独学 検定、通信教育、認定講習などにより旧中卒 資格、新高卒資格、社会教育主事資格、社会福祉 主事資格、社会福祉施設長資格、福祉施設士資格、 青少年育成アドバイザー資格、経営診断士資格、 公害防止主任管理者資格などを取得した。町工 場の丁稚、用務員、行商人、地方紙記者、私学講 師、保育園職員などの職を経て甘木市吏員とな り、中央公民館、教委社会教育課、福祉事務所、 市立図書館などで社会教育と社会福祉の業務を 担当、一九八六年に退職した。現在県青少年指 導員、青少年育成市民会議幹事、朝倉地域社会福 祉専門協議会事務局長、地域交流ホーム紅葉館 館長、などの役職に就いている。日本社会福祉学 会会員。著書三冊、論文六十編余。甘木市双葉町 在住。

**************************************** 甘木山安長禅寺物語 平成四年八月十六日発行 著者    林敏弘 発行所  甘木市八日町       安長禅寺          п@0946−22−5361 住職    平野宗紀 総代    勝又利一 版画制作 佐野至 写真撮影 川名信生 企画制作 甘鉄エージェンシー *******************************************