安長寺十二の末山の一つである善祥院は安長寺の西側高原町に
ありました。安長寺の衰微とともに衰微し荒廃していましたが山
陽道随一の霊仏といわれる安芸の国竹原の薬師如来を勘請してから霊
場として復興しました。このような由緒ある霊仏を勧請したので遠近
の信仰があつく、様々の霊験談が旧記や口碑に遺されています。この
ことについての文献は次の通りです。 |
安長寺は戦国時代の災禍を受けて廃墟となりました。そしてそれ以
来急速にその規模を縮小しました。 |
昭和の中頃まで甘木に二つ鑪がありました。鑪というのは鉄を素
材として各種の機器を鋳造する工場のことです。鑪は明治以降はどこ
でも自由に設置できましたが、旧藩時代の鑪は幕府の命によって設
置場所の制限があり福岡藩では五ヶ所、秋月藩では一ケ所と定められ
ていました。 |
第二十二代住職蘭州禅師は安長寺歴代住職の中でも傑出した名僧で
あったといわれています。蘭州禅師が安長寺の法灯を継承したのは明
治二年七月九日のことでした。この年は二年前に大政奉還や王政復古
が行われ葵は枯れて菊が栄えるための諸改革が急激に進行し、世情
不安な日々が続いていました。 |
安長寺の初市の頃で、往古の甘木の町の活気に満ちた盛況ぶりを紹
介した中で、甘木饅頭と地蔵飴が甘木の名物として売られていたこと
を述べましたが、このことについてもう少し補足してみたいと思い
ます。江戸時代の中期、安長寺山門の向かい側現在白水ビルが建っ
ている場所に大坪七之助という人が地蔵祭りの土産として「地蔵飴」
という飴菓子を売出しました。この飴菓子は従来製造されていた水
飴や引き飴、飴玉に改良加工した新製品であったため、たちまち人気
商品となりました。 |
先にも触れた様に数次におよぶ火災により寺の古文書一切が焼失し、
天正十四年に秋月種実が島津義久とともに岩屋城を陥として高
橋紹雲の霊を弔った時、衆僧五十人による大施餓鬼をしました。その
時施餓鬼の席で法系を開かれ、それ以来新しい法系が確立される事に
なりました。その時からの法系は次の通りです。 |
馬場町の地名のいわれについて、「方八町に及ぶ大伽藍であるから
寺の安全と秩序を維持するために僧兵がいたし、その僧兵を訓練する
ための馬場があった。」とするのは諸旧記の記述しているところです。 |
臨済宗の勤行式では、本尊誦経としては、般若心経、供養誦経として
は普門品経が主誦の経とされています。普門品経というのは観世音菩
薩の功徳について説いたお経です。
安長寺にはこの有り難い観音様が五体祭祠されています。 この内もっとも占くから祭祠されていたのは「聖観世音菩薩像」で、 足利時代の作と云伝されています。 明治維新の時代に廃仏棄釈騒動のさなか、太宰府天満宮から移管さ れた「渡宋聖観世音菩薩像」はインド製で宋を経由して入国し四百年 余りにわたり太宰府天満宮の守護仏として祭られて居たものであり、 その移管のいきさつについては「二十四蘭州禅師」の項で述べたとう りです。 当時この渡宋仏と同時にもう一体の観音像「浄堤観世音菩薩像」が 同じく太宰府天満宮から移管されています。作者及び時代は不詳です が、在所世代を越えた威徳を備えた仏像です。 これら三体の観音像はいずれも内陣に安置されていますが、もう一 体は「救世聖観世音菩薩立像」で、境内西側の台座の上に立てられて 居ます。
若干の無住期の後に着任された二十六代黙克tは、前師の志を継ぎ、 ついに昭和四十九年七月にこれを竣工させました。 この像の設立趣旨については台座裏面の碑文に詳しく説明されてい ます。 さらにもう一体の観音様は石仏で、この立像の右側にある石仏堂の なかに他の石像とともに祭られています。 この石仏堂の横には秋葉山を祭った堂があります。 弘法大師像は、本堂右側にある弘法大師堂に祭られています。この お堂は巡礼霊場の札所になっています。 境内の北側の奥まった所には、境内摂杜として稲荷神社が祭祠されて います。 |
安長寺境内にあるたくさんのお堂の中で一際高い格式を備えている
のは、稲荷神社と弘法大師堂の間にある「太子堂」です。
安長寺の太子堂は細木を組み合わせて一本の釘さえ使っていない芸 術作品で、古来希少の文化財であります。この希少な宝物的建造物を 陽晒しにすることを恐れた先人は、この太子堂を守るための掩蓋用の 建物を建てました。従ってこのお堂は内堂がありその中に太子が安置 されています。 内堂の建立年代は不明ですが、外堂は光格天皇の文化十二年〔18 04年〕に建立され、その後何回かの改修が施されて、今日に及んで います。 |
太平洋戦争末期の昭和十九年一月、当時軍隊に入らず、金銭出納、
用務員、給仕、番頭などの不急職場にいた男子を、根こそぎ軍需用工
場に動員しました。そしてその代替要員として十四才から二十五才ま
での未婚女性が勤労奉仕要員として徴用されたのが女子挺身隊です。 |
安長寺参道右側、鐘楼と集会所の間に花壇状に区切られた一面があ
り、そこに甘木あたりではあまり見かけない細い木が植えられて居ま
す。
以来千余年にわたり大事にされて今日に及んでいるわけで有ります。 従ってこの木は既述の大樟とともに安長寺の霊木として大切にされています。 |
昭和二十年八月に太平洋戦争が終結し、連合国軍による日本国占
領がはじめられ、日本国民主化が始まりました。そして昭和二十二年
四月に民主々義の理念に基づく始めての選挙が実施されました。四月
五日に県知事と町村長が行われたのを皮ぎりに参議院、衆議院、県議
員、町議員のすべてが新しいルールによって改選されました。 |
安長寺が臨済宗東福寺派の寺院であることは五、安長寺の改宗の項
で述べましたが、この派の大本山東福寺は京都市東山区本町に在りま
す。 |
安長寺で年間行事として行われているお祭りは次の九つです。 |
安長寺の山門は長い歴史を象徴するにふさわしい、どっしりとした
佇まいを見せています。 |
昭和五十年に黙腰a尚が着任されましたが、和尚は生家の寺で茶道
に親しんで育ち、大学を出てさらに七年の歳月を茶道研究に費やし実
績を活用するため、茶道場を建設しました。 |
太平洋戦争のさ中、軍需資源を確保するため、軍の指導者は、民間人
が所有するあらゆる資源を、供出という名目で徴発しました。寺院の
祭祀用具も例外ではなく、安長寺の梵鐘も半鐘も徴発されました。
洞雲和尚の代に佐賀県小城町の寺が廃寺となり、その寺にあった半 鐘を譲り受けたので、梵鐘も半鐘もともに揃うことになりました。(二 の鐘) 昭和六十年頃市内安川町の明元寺の佐々木副住職からの連絡で供出 した半鐘が戻ってきました。この鐘は、一旦供出された後どこかで迷 子となり、安川村火の見櫓の半鐘として使われていました。新システ ムの採用で不要となり、消防団詰め所の倉庫に放置されていた物です。 (三の鐘) このような訳で現在は三つのテンプルベルが安長寺で仲良く暮らし て居ます。 |
仏の園の過去遠く 奈良の時代安長は |
「憩堂和尚」 |
過去一千有余年永い安長寺の歴史の中で、寺のために尽くした人は
沢山居たことと思われます。しかし残念なことに、それらの人々に関
する記録や伝承らしきものも残されて居ません。 |
安長寺についていろいろな角度から検討してみて言えることは、一
般的には檀家や信徒と寺院との関係で寺の運営が成されているのに対
し、安長寺の場合はちょっと違った物が感じ取られるということです。 |
檀家信徒総代の方々から執筆の依頼があった時、「私ごときが」と
いう気持ちと「これは大変な仕事だ」という気持ちが半々で、はっき
りした返事を保留していました。その後三年三月二十四日に「山門落
慶大般若法要に招かれ、参加致しましたところ、一山の衆僧による法
要の執行は、まさに感動そのもので、第二十六代方丈黙国T師の日常
の努力の結集を見る思いがしました。この法要に参じえた佳き日の感
動が、ついに執筆を決意させました。しかし資料の少なさ、執筆時間
の確保困難などで、なかなか思う様に進捗せず、一年の月日を経過し
て、やっと予定の項目を埋めることができました。情報不足のため十
分でなかった点もありますが、曲げて御笑覧くださいます様懇願申し
上げる次第です。 |
小川嘉夫 |
林敏弘
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