用   語
解               説
夏物成り 年貢の一種。夏期に納入するのでこの名称がある。原則として麦の収穫を基礎としたが、米納・金納となり、金納では米2石5斗につき銭一貫文の割合が定則であった。 
高掛かり 江戸時代の付加税。その村高に応じて課された。夫米・夫金・糠藁代など、地方、藩によって各種あった。 
物成り掛かり 江戸時代の年貢の事。田畑の生産物に課せられる年貢を本途物成りといい、現物納が原則であるが畑は早くから金納であり、江戸後期以降は田も金納される場合があった。 
文禄慶長の役 16世紀末、豊臣秀吉が征明(みん)を目的とし、朝鮮に服属と明への先導を要求して起こした侵略戦争。朝鮮では壬辰(ジンシン)(1592)・丁酉(テイユウ)(1597)の倭乱といい呪われた乱として語り伝えられ、また朝鮮人民の勝利に終った戦いともいわれている。この役により日本に連行された捕虜は多く、製陶技術の伝播を強制されたり、朱子学を伝えさせられたりした。
太閤検地 天正10年(1582)以降、豊臣秀吉が全国的に行なった統一的な検地。実際に土地の検査を行い、従来貫高で示されていた田畑を石高(生産高)で示すようになった。また、6尺3寸四方を1歩とし300歩を1段とする段歩制を採用、耕地を上・中・下・下々の等級に分け、使用枡を京枡に統一、村ごとに検地帳を作って直接耕作農民の名を記し、耕作権を保証するとともに年貢負担者とするなど、従来の検地に比べて、規模・方法ともまったく一新した事業となった。 
内検高 所領内で実際に年貢を課する対象となる石高 
掟七ヶ条 1・当町中、諸役免許せしむ事。附(つけた)り、売買順路たるべき事
2・諸奉公人・町人・百姓に対し猥(みだり)の義これ有るべからざるの事
3・山林・竹木断り無く剪採るべからざる事
4・百姓手前役義相定めの上、違変すべからざる事
5・申(さる)の年已前逐電の百姓、唯今の在所別無く帰参仕り、田畠耕作致すにおいては、其の物成り納所の外三年諸役免許たるべく事
6・他所より走り来る奉公人・百姓等、領内隠し抱え置くべからざる事
7・分領中・所々奉行自然非分の族申懸かるにおいては、其の身背かざるの者たりといえども直に告げ知らすべき事
  右、相背く輩これ在るにおいては厳科に処すべき者也。仍て件の如し
                                                  豊氏 判
大阪城普請  
江戸城二の丸  
島原一揆   寛永14~15年(1637−8)肥前島原半島と肥後天草島の農民がキリシタン信者と結合して起こした大反乱。この地方は元来キリシタン信仰が強く、幕府の禁教政策に対する不満が潜在していたところに島原城主松倉氏の苛酷な政治が重なり、寛永14年10月、島原の農民がまず蜂起して松倉氏の藩兵を破り、次いで天草島農民も呼応。首領は豪農益田氏の子四郎時貞で浪人もこれに参加、原城に立てこもった。幕府は板倉重昌を派遣して近隣諸藩の兵を指揮させたが失敗し重昌は戦死。15年、1月始め松平信綱が着任、2月末原城陥落。一揆に参加した者は皆殺しにされた。 
筑後川の渡し 江戸時代、幕府は大河川に架橋することを許さなかった。よって筑後川を渡るには、「歩(かち)渡し」と「船渡し」の二つの方法があった。

歩(かち)渡し

1 三潴郡長門石(長門石町)から肥前千栗(北茂安町)
2 荒瀬村(宮の陣町)から肥前水屋村(鳥栖市)
3 竹野郡恵利村(田主丸町)から筑前中村(甘木市)

船渡し

1 宮路渡し 筑前・肥前への街道筋(宮の陣)にあり、大久保渡し(東久留米から小森野村)の廃止後はますます重要となった。領内渡し

2 神代(くましろ)渡し 坊津街道及び府中町から松崎町経由筑前への道筋にあり、中世文献にその名は知られる。領内渡し

3 大城渡し 勿体島(善導寺町)から三井郡大城村(北野町)へ渡す。島津攻めの際、秀吉もこれを渡っている。別名「舷の渡し」。領内渡し

4 恵利渡し 竹野郡恵利村三角(田主丸)から筑前長田村(甘木市)へ渡す。有馬氏入部のときこれによって筑後に入ったともいう。

5 高田渡し 生葉郡高田村(吉井町)から筑前古毛村(朝倉町)に渡す

6 小江渡し 2ヶ所あり、一つは生葉郡小江村(吉井町)から筑前志波村(朝倉町)へ、ほかは同所から筑前山田村(同上)へ渡す。前者を舟戸渡しともいう。

7 古川渡し 生葉郡古川村(浮羽町)から筑前杷木村(杷木町)へ。日田街道の別路筋であり、筑後からの彦山参詣路でもある。

8 片瀬(かたのせ)渡し 竹野郡片瀬町(田主丸町)から御井郡守部村(太刀洗町)へ渡す。領内渡し

9 瀬下渡し 城下瀬下町から三潴郡長門石村(長門石町)へ。領内渡し。

10 大石渡し 三潴郡大石村(大石町)と肥前豆津(北茂安町)間、長崎街道への渡し。肥前側と筑後側から各1艘を出す。 

11 草場渡し 三潴郡草場村(三潴町)から肥前江口村(三根町)へ渡す。 

12 大島渡し 三潴郡大島村(安武町)から肥前江口村(北茂安町)へ渡す。 

13 住吉渡し 三潴郡住吉村(安武町)から肥前天建寺村(三根町)へ渡す。 

14 下田渡し 三潴郡下田村(城島町)から同郡浜村(同上)へ領内渡し。 

15 城島渡し 三潴郡城島村(城島町)から肥前大島村(千代田町)へ渡す。 
16 浮島渡し 三潴郡浮島村(城島町)から同郡青木島村(同上)へ渡す。領内渡し。

17 鐘ヶ江渡し 三潴郡鐘ヶ江村(大川市)から同郡道海島村へ渡す。領内渡し。

18 榎津渡し 三潴郡榎津町(大川市)から肥前寺井村(諸富町)へ渡す。 

四十五条の「覚」  
船入場  
日光普請役  
土免法  
扶持人屋敷  
神篭列石 四角い切石を1列に並べ山腹を巡らせて山頂を囲む巨石遺構。谷間には切石を積んで石垣を築き、水門や門跡が認められる。霊域説もあるが朝鮮式山城と一致する点が多く、7世紀頃の対外的城跡とみられている。高良山・雷山など北九州を中心とし九州・中国地方に9ヶ所知られている。 
宗門改人別帳 宗旨人別帳。宗門改人別帳ともいう。キリスト教禁制の徹底を契機として作成された帳簿。寺院が檀家たることを個人ことに証明したもの。戸主以下家族・奉公人の名・年齢と所属寺院などは必ず書かれ、戸籍としての役割も果たした。 
勝手方差支え  
藩札 江戸時代、諸藩が財政窮乏救済のため発行した紙幣、領国内の流通と幕府貨幣との兌換を原則とし、金札・銀札・銭札のほか米札・傘札などもあった。  
犬鳥類憐令 江戸幕府5代将軍徳川綱吉が貞享4年(1687)発令し宝永6年(1709)その死まで行われた生類殺生禁止令。生類奉行をおいえ実施した。綱吉が戌年だったので、犬に対してはことに厳重で元禄8年(1695)江戸中野の犬小屋で養われた野犬だけでも10万頭に達し、その費用は江戸市民に課せられた。また違反者に対する処分もきびしく、悪政として世人の不満を買った。 
蔵米支給 切米取りともいう。家臣のうち知行所を与えられず領主の米蔵より直接に現米あるいは切手を給与される家臣。 
床島堰、江戸水道  
検見方下見算用役  
春法検見  
正徳条目  
春免法  
検本高  
仕置き場 刑務所。江戸時代の仕置き(刑罰)は、
生命刑=鋸びき・磔・獄門・火罪・死罪(斬罪)下手人(財産を没収しない)
身体刑=敲(たたき)刺青
自由刑=入牢・遠島・追放・閉門・逼塞・遠慮 
農民一揆  
御勝手方御用聞  
日田公米  
人別銀賦課  
和算書「拾幾算法」  
御講席  
明善堂  
在町講  
空米切手  
産物方  
竹野郡亀王組  
水戸学 江戸時代、水戸藩において、「大日本史」編纂事業を中心におこった学風。儒学(朱子学)を中心に国学・神道をも総合。前期水戸学は徳川光圀を中心に過去の歴史の大儀名分をもとめ、皇室尊崇を説いた。 
五ヶ条の大倹約令  
嘉永の獄事件  
山梔窩  
大夢記  
倒幕論  
為尭編  
寺田屋事件  文久2年(1862)4月23日、京都伏見の船宿寺田屋で薩摩藩尊攘派志士が殺害された事件。当時上洛中の島津久光の意図は公武合体にあったが、藩士有馬新七・田中謙助らはこれを機に挙兵倒幕を企て、まず関白九条尚忠・京都所司代酒井忠義の殺害を計画して寺田屋に集結した。これを知った久光は鎮圧のため、奈良原八郎ら9人をつかわしたが両者乱闘に及び、有馬ら6人は闘死し、田中ら2人は重傷を負い翌日自刃を命じられた。
七卿と長州に下る  
公武一和  
蛤御門の戦い 元治元年(1864)に起った。その前年の文久3年8月13日の政変で。京都の地位を失墜した長州藩は勢力回復のため藩主父子の雪冤、尊攘派7卿の赦免を願ったが許されず、さらに翌年6月・池田屋事件で藩士が殺されたため、進発の勢いは急に盛んとなり、ついに福原越後、・国司信濃・益田右衛門介ら3家老が兵を率いて上京、7月19日、会津・薩摩両藩の兵と蛤御門付近に戦って敗北、第1次長州征伐の発端となった。 
第1次征長戦 元治元年7月、江戸幕府と長州藩との戦争。薩摩西郷隆盛の斡旋により、長州藩が3家老の切腹で恭順の意を表し、幕府軍は戦わずして12月撤兵した。 
第2次征長戦  
関ケ原の合戦  
関流和算  
二の丸(にのまる) 本丸を直接守備する曲輪(くるわ)で、城主の居館や兵器・兵糧蔵などが建ち並んでいた。通常、二の丸は本丸を取り囲むか、又は島原城、大垣城のように、本丸と並んだ第二の拠点であるかのようになっている場合とある。
筑前堀  
本丸 城内における最も重要な曲輪(くるわ)で、戦時には司令部が置かれる。近世には政務の場となり天守が置かれた。
三の丸 二の丸を直接、本丸を間接に守備する曲輪で藩政上の役宅や重臣(家老格)の屋敷地、馬場や厩(うまや)が置かれた
平山城       (ひらやましろ) 山上から、麓の平地までをも城域に含んでいる城。山上には山の地形を利用した城を、麓の平地には居館を築いて、山城と平城の長所を兼ね備えている。石垣が雛壇のような階段状に構築された一二三段が特徴である。江戸時代の多くつくられた。
隅櫓(すみやぐら) 石垣が突き出た隅につくられた櫓。規模の大きいものは天守と同じような形態を示す。
多聞櫓(たもんやぐら) 塁上に沿って建てられた長屋状の櫓。平時は蔵として利用し、戦時には強力な防衛線となる。代表的な櫓の一つ。
多聞造り 上と同じ
福岡城  
膳所城  
金沢城