久  留  米  城  に  つ  い  て

 久留米城は一般に「篠山(ささやま)城」と呼ばれ、もと西側に流れる筑後川を控えて笹やぶの生える小高い丘陵地であった。永正年間(15041521)当地の土豪が城砦を築き、のち御井郡司が拠って天正はじめ頃(1573)に高良山座主良寛が支城として弟の麟圭を置いた。

 今日みるような近世城郭の始まりは、天正15(1587)豊臣秀吉の九州平定後、毛利元就の子 秀包(ひでかね)が入ってからである。秀包は中世城郭を改築して、秀吉から賜った大阪城の一 室をここに移し「大坂書院」と号した。しかし、慶長5(1600)関ヶ原の戦いで毛利秀包は西軍 に属したため改易され、翌6年石田三成捕縛で功を立てた田中吉政が筑後一円三十二万五千石の 大封を受けて柳川城に入り、当時支城であった久留米城には吉政の次男吉信が入った。慶長19 年吉信の没後は老臣坂本和泉が城代として預かったが、元和6年(1620)柳川城主田中忠政が病 死した嗣子なく断絶した。そこで柳川城には立花宗茂が入り、翌7年久留米城には丹波(京都) 福知山城から有馬豊氏が21万石を拝領して入り、以後有馬氏11代の居城となった。

 このうち7代藩主頼僮関流和算の大家で「方円寄功」「拾幾算法」を著し、数学史上に貢 献したことで知られる。

 有馬豊氏が入封当時、「米府年表」に「久留米御城御寝所なく、その外御城中の修補未だ整 い申さず」と伝えられ、おそらく支城にすぎなかったために未完なところがあって、規模施設 を改めて整備する必要があったらしい。したがって領内の古城から石材を再用して石垣を積み 、寛永8年(1631)二の丸廻りの筑前堀、そして慶安4年(1651)には外郭の堀を構築し、引き続 き承応2年(1653)明暦元年(1655)貞亨2年(1685)元禄4年(1691)と城域を順次拡張した。

 古絵図によると、縄張は本丸を中心に石垣が積まれているが、南側に広がる二の丸三の丸 外郭の堀は土塁とされている。本丸だけがやや高い平山城であるものの、城下町を含めた全体で みれば筑後川の泥湿地を利用した平城ということができる。

 久留米城は本丸のみ石垣で築き、周囲には隅櫓7棟を配し、それらの間を多聞で囲んだ堅固な 構成となっているのが大きな特色である。とりわけ隅櫓すべてが三重、多聞も二重で、それらが 延々と建て連なるさまは俗に「多聞造り」といわれた。なかなかの壮観で、古写真にその勇姿が 知られる。二重の多聞を建てた例は福岡城膳所城金沢城などにみられるが、久留米城本丸の ように周囲が回っている点はより完全な構えである。

 延宝8年(1680)の「御城本丸絵図」によって御殿の平面間取りが知られる。南半に玄関、広間、 千鶴之間、黄帝之間をとり、東北方面へ芭蕉之間、曲水之間、柳之間、菊之間、耕作之間と藩主 が政務をとるための建物が雁行状に軒を連ねる。ここでは奥向部分がないが、別に二の丸御殿を 設けており、藩主の日常生活はそこで営まれた。

久 留 米 城 下 町 の 形 成 と 変 遷


 明治22年4月、有馬氏21万石の旧城下町を境域として成立した久留米市は、その当時戸数4262戸、
人口24.750人、面積2.266kuであった。

 市街は、旧城下町とこれに続く東南の若干の地に偏している。東西に屏風状に連なる耳納山地の 裾から西北方へ、筑後川左岸に向い起伏のある舌状微高地が延びる。いわゆる久留米段丘で、縁辺 部は段丘崖をつくり、低い小山も見られる。久留米城ははこの種の笹山に築かれた平山しろで、城 下町は筑後川を北背にする城を基点としてその前方の段丘面に逆扇状に形成された。
 戦国末の久留米城は、筑後一ノ宮を祭る高良山寺社勢力の出城の一つで、のちの45世座主麟圭が 居城した。天正15年(1587)の秀吉の九州平定後、初の近世大名として夫婦ともキリシタンの小早 川(毛利)秀 包が入城したが、関ヶ原役で敗れ、慶長6年(1601)春、石田三成を捕らえた功で三河 国(愛知)岡崎城主田中吉政が筑後国主となり、柳川城に入り、次男主膳正をおいて支城とした。 この代に城郭の改修がなされ、 柳川と久留米を結ぶ直線道路の開通、城の西側の筑後川の迂曲部に 捷水路(瀬下新川)を掘通したという。
 田中氏も2代忠政の代に嗣子が無く断絶。小早川(毛利)・田中両家とも20年足らずの治世で、当時の城下 町の姿を伝える資料は皆無に近い。後世の記録によれば、当時の城は後のような南面の構 えではなく東面 で、南・東部に城下町があり、城内に東・西久留米村の鎮守社(有馬氏がのち城外 に移す)が残され、城も 城下町とも小規模であった。「石原家記」は、後年の通町(はじめ長町) 筋は古くからの豊後街道でまだ町並 はなく、のちの4丁目辺りから筑前街道が北へ分岐し、今の蛍川 町の西部、櫛原村、小森野村などの湿地帯を抜け、筑後川を大久保渡しで越したと記している。現在 は東櫛原町に「博多道」の小字名が残っている。

  元和7(1621)春、丹波(京都)福知山8万石の城主から筑後の内821万石の領主として久留米に入封 した有馬豊氏は、知行高に応じた新家臣団の構成と城郭の拡大、城下町建設に着手した。城は南面の 構えに改め、本丸を基軸に南へ二・三の丸、外郭と堀を間におき、台形に末広がりをもつ構造となっ た。久留米総鎮守の祇園社を除き、東・西久留米鎮守の二山王社や、旧城郭近くの町並みなどが他に 移され、広大な新規縄張りがなされた。同時に外堀外の武家屋敷や寺院町の設置が進められ,2代忠頼 の明暦元年(1655)ごろまでにほぼ完成した。その後、町の発展や、ことに享保11(1726)の大火事後 の城下町入れ替えなどがあったが、基本的な城下町構造は初期のままであった。

 天保年間の城下絵図を概観してみよう。城郭の正面には両替町ほか十か町の中央街があり、これか ら東へ豊後街道筋の通町とその裏町がのびる(以上は城下本町)。さらには柳川往還筋に原古賀町と、 その中途で分岐する豊後山中街道沿いの小頭町があり、ともに城下町としては出町に属する。城下西 端、筑後川辺には領内物資集散の川港、水天宮で知られた瀬下町がある。城郭外の武家屋敷として、 西に京隈小路(馬廻りなどの中士居住)、南に中央町屋群を間にして庄島小路(主に御側足軽・扶持人及 び御徒士組、周辺に重臣の中・下屋敷)、東に櫛原小路(中士居住)、その南方に通町を挟んで十間屋 敷(中士居住)が設けられ、櫛原小路の東方、通町の北裏には鉄砲小路(御先手足軽組屋敷)があり、 またその東部一体には鍵手状に21ヶ寺を集めた寺町が見られる。「筑後志」(安永6年・1777)は, 鉄砲小路の配置は城郭警固を意図したと記しているが、寺町も前進基地的役割を有していた。武家小 路の在り方で特徴的なのは、町屋を挟むかまた囲むことで、これは武家・町人全体を城郭に入れて守 る惣郭方の変形とも見られる。また筑後川と流域の湿地帯をもつ北部を除き、東・南・西の城下口の 街道筋には通十丁目口、小頭町口、原古賀町口、瀬下町口などの番所を設け、城下の小路口にも下番 所がおかれた。

 以上、当然とはいえ、城下町久留米の構成には、軍事防衛と都市秩序維持を十分に考慮した側面が よく見られる。