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東国分・西国分校区の文化財

文化財

東国分・西国分枚区は、久留米市街地の南東側に位置しています。西国分校区のほ ぼ中央を国道3号線が南北に通過しており、交通の要所であると同時に、その大半が住 宅地になっており、    多くの人々が生活しています。  東国分・西国分枚区の地形は、明星山から西に 伸びた、なだらかな低丘陵の先端にあたり、人々 の生活の痕跡が見られるのは、縄文時代からです。


正福寺・宮ノ脇・政所・大木下

樋渡土銅印

正福寺・宮ノ脇・政所・大木下・名人の各遺跡は、日 濾遺跡群として、縄文時代前期から晩期に至るま での久留米を代表する縄文遺跡として著名です。
 弥生時代の遺跡は、正源寺・生尻・隈山遺跡な どから、弥生土器が出土しています。 日渡遺跡出土鋼印  古墳時代になると、大規模な集落が営まれます。 野中前遺跡や野中三十六遺跡では、 久留米最大の竪穴住居を含む、広範薗にわたる大規模な集落が発見されました。又、 中隈山古墳群・山の神古墳群・隈山古墳・日隈山遺跡など、古墳も多く造られていて、多 くの人々が生活していたことが窺えます。  奈良時代には天皇を中心とする中央集権国家が成立しますが、国内の整備に伴って、 全国に幹線道路(官道)が敷設されました。九州では西海道と呼ばれ、西国分枚区内を 南北に通過しています。又、鎮護国家思想の下、全国に国分寺・国分尼寺が造営されま すが、現在の日吉神社付近に筑後国分寺、その北約200mに国分尼寺が造られました。

奈良時代・平安時代

当時の文化の中心であったと言って良いでしょう。  平安時代から中世にいたる時代は、大国遺跡・栗林遺跡・野中本村屋敷遺跡で当時 の食器や大陸から輸入された陶磁器などが確認されています。高屋敷などの地名から、 当時の有力者の館が存在したことが考えられます。  江戸時代末期には、久留米藩11代藩主有馬頼成が、東野中の藩主別邸に東野亭焼を 開窯しました。しかし、窯は長く操業されず、明治時代に入って、民間に払い下げられ廃 窯となりました。  東国分・西国分校区では、現在のところ余り多くの遺跡は発見されていません。それは、 発掘調査が余り行われていないことと、開発の為、破壊された遺跡も多くあったからで、 今後の調査を通して、校区内の歴史を解明していかなければならないでしょう 。

野中前遺跡

野中前遺跡

今から約1500年前の古墳時代後期の集落遺跡 で、平成7年にマンション建設に伴う発掘調査で発 見されたものです。調査では、竪穴住居・掘立柱建掛 溝・コミ捨て穴などが見つかりました。特に平成10 年の調査では、久留米市最大の竪穴住居が発見され、 この周辺に大集落が広がっていたことが窺われます。 集落が営まれた6世紀前半は、当時北部九州を権 力下においた筑紫国造磐井が、527年、継体天皇に 対して反旗を翻した「磐井の乱」が起こった時代です。「日本書紀」によると、この戦い は約2年間続き、御井郡で最終決戦が行われたといいます。野中前遺跡はこの御井郡 内に入り、この集落に暮らした人々が「磐井の乱」に巻き込まれた可能性も考えられます。

中隈山古墳群

中隈山古墳群

明星中学校西側の丘陵上に、10数基の古墳が 存在しました。開発の為、大部分が破壊され、現 在は3基程度が残っています。古墳は、丘陵裾部 を馬蹄形に溝を掘って、中央部分に、板石で横穴 式石室を構築しています。須恵器や土師器・馬具・ 玉類が出土していて、6〜7世紀の年代が考えら れます。

西海道上牟田地区

西海道上牟田地区   

奈良時代、律令国家の整備に伴い、全国に幹 線道路が敷設されました。久留米には、大字府 〜筑後国府(合川呵)〜肥後国府を結ぶ西海道 が通通しており、西国分枚区の上牢田地区で発 掘調査されました。調査の結果、幅7m以上の道 路と、両側の側溝が検出されました。側溝からは 8〜10世紀の遺物が出土していて、約300年間使 用されていたことがわかりました。

筑後国分寺
(僧寺・尼寺)
市指定

筑後国府寺跡

天平九年(741年)、聖武天皇は、国家の平安を祈願して、諸国に国分寺創建の詔を発しました。筑後国では、現在の日吉神社付近に僧寺、その北側約200mに尼寺が建立されました。1977年から発掘調査が行われていて、日吉神社の境内に講堂の礎石が発見され南東側の観音堂付近では塔と思われる版築基壇と、その上の礎石が発見されました。又、周
辺では寺域を区画する築地や溝が検出されていて、約180m四方の寺域が想定されています。尼寺は現在のところ遺構が発見されておらず、詳細は不明です。各調査に伴って、軒先瓦等の大量の瓦や
陶磁器・土師器・須恵器が発見されています。当時の最先端の文化は、ここから発信されたのでしょう。

大圏遺跡

大園遺蹟

平成10年、住宅建設の際に発見された、平安時代から鎌倉時代にかけての集落遺跡です。従来、野中呵の高良川左岸では、遺跡の存在が知られていませんでしたが、輸入陶磁器や土師器傾恵器が
発見され大きな集落の存在が考えられます。

東野亭焼窯跡

東野亭焼釜跡

江戸時代末期、築け代久留米藩主有馬頼成が、東野中の藩主別邸に東野亭焼を開窯しました。当初はいわゆる「お庭焼き」として始まりましたが、幕末には藩の済産方の管轄となり、殖産興業の一環として操業されたようです。明治時代に入って、三瀦県産物会社に引き継がれ、しばらく操業されましたが、長続きせず、明治8年(1875年)頃廃窯となりました。平成10年の発掘調査の結果、窯では主に陶器を焼いたようで、「東野亭」銘の行平鍋や
急須・徳利・土瓶・片□・鉢・灯明異などが見られます

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