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鳥飼・金丸・南校区は久留米市の西側に位置し、鳥飼校区の西端は筑後川を隔てて、佐賀県北茂安町に接しています。校区は、筑後川が形成した筑後平野に位置し、現在は住宅地として多くの人々が暮らしています。
この校区に人々が暮らし始めたのは、縄文時代のことです。今からおよそ7000年前の縄文時代早期と呼ばれる時代に、金丸校区の津福寺山遺跡や南校区の日渡遺跡に人々が暮らし始めました。これらの遺跡からは、建物や倉庫の跡は確認されていませんが、縄文土器や石器、焼けた石などが発見されています。 次の弥生時代から古墳時代にかけては、鳥飼校区の宮の木遺跡・隈丸遺跡・津福西小路遺跡・田中遺跡・山ノ内遺跡・金丸校区では、津福古賀畑遺跡・津福立石遺跡・金丸遺跡が発見され、人々の生活の場が広くなっている様子が見て取れます。
奈良時代から中世になると、校区内の各所に集落や墓といった遺跡が見受けられます。特に、津福西小路遺跡や田中遺跡からは、貴重な輸入陶磁器が発見されています。 江戸時代になると、鳥飼校区を南北に走る柳川住還が整備され柳川城と久留米城が一本の道で結ばれます。金丸校区には、久留米城城下町の南端に位置する子頭町があり、多くの町人が暮らしていました。南校区には、明治時代の廃藩置県によって江戸(現在の東京)の藩邸に仕えていた藩士が帰国して暮らしていた屋敷地があり、現在は石碑が建てられています。
このように、各校区には、数多くの文化財が発見されています。残念ながら当時面影は、現在の町並みの下に埋もれてしまっていますが、このマップを手に町中を散策してみると、思いがけず昔の景色に出会うことができるかもしれません。
日々の生活の中に人々の生活の歴史を思い浮かべながら町を歩いてみてください。なにか発見があるかもしれません。
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