註 漢文は書き下し文・漢字は当用漢字・仮名使いは現在に変更しています
名士所感 東浜倉富勇三郎 明治之初、予藩黌に在り牛嶋牛渚、予が為に日向神の勝を説く頗る詳。且つ曰く其の勝耶馬渓に譲らず。予謂えらく牛渚亦其の郷を私す、未だ必しも信ずべからず。くばくも無く藩黌廃せられ。予官に四方に遊ぶ者四十余年。終に其の勝を探らず亦甚だ之を憾まざる也。頃者奥疑園主人、一冊子を寄す、題して日向神紀行と曰う、分て二編と為す、紀前後二遊、日に繋かくるに二行程を以ってす、境に随って景を叙す、諸家の題詠を挿んで以って之を証す。加之に加え江碕巽庵之を叙す景の未だ悉さざる者を補って是に於いて日向神の勝宛然人の目睫に在り。予素主人を知らず、而主人予が名を知る、予をして始めて牛渚の我を欺かざるかざるを知らしむ。其の恵亦大なり。今此巻を閲し我師友之の日向神に遊ぶ者、十指以って之を計るべからず。而して其の存する者幾ばくも無く。謝罪を牛渚に謝せんと欲するも之を起すべからず、豈蒼然たらざるを得ん。済勝の具に乏し、唯当に此の書に頼り夙遊せざるの悔を消し、併せて落寞の懐を慰むべき而己。 大正癸亥初夏日向神紀行に題す 肯堂仁田原重行 笠簑深く入る八媛の渓 金玉何ぞ唯翠紫を評せん 観察幾多世上の情 個中自ら文章の髄有り 白仁 武 予亦筑後之産、八女の下流を汲み此生を獲る者、未だ嘗って日向神の勝を閲せず、山神に背くの罪少なからず、況哉将軍之墳に謁せず、自責殊に深し。今先生の此著に対し感慨曷ぞ勝えん。 日向神の 奥の山路 ふみ分けし きみの功は 神もめつらむ 日向神紀行を読む 雲処松下丈吉 隠山又媒無きを歎する莫れ、鉛槧人有り崖壁の開くを、日向神邃の奥、天門巌は聳ゆ翠屏の隈、紀行澹淡遊興を写さん、気慨紛々俗崩に泣く、宿志多年未だ報いず、君に依って初めて拝す墓前の苔、 真野文二 八女山の道のしるへの石なれや 高くも見ゆる 君がことの葉 奥村石水 よむどこの 人の心を そゝるらむ あはれいみしき 八女の山奥 大正元年九月、余西海を辞し東都に赴く、途八女峡を望み作有り。今已に十年、此れを録して三逕恒屋詞兄の正と為す。 苔巌 林 工 耶馬渓山の勝 謂うをやめよ天下に無しと、 南筑八女の峡 奇景並駆するに堪えたり、 挙国皆大野 本泉石の区に乏し、 誰か知らん九疑の間 神秀一隅に鍾る、 海を距る東十里 山勢南北に趨る、 一水幾たびか旋折 万巌態自ら殊なり、 古檜陰森の底 抔土龍雛を祀る、 遺臣今猶存す 漆筐金烏を秘す、 我一たび遊ばんと欲する久し 今春将に途に上らん、 窓間晴雨を籤し 炉畔地図を按す、 故有って遂に果たさず 居諸隙駒の如し、 今復遠行を謀る 東智にして而西愚なり。 日向神紀行を読む 掬水 本荘季彦 誰か云う渓山到る処多しと、風光探り得て詩歌に入る、想う君が少壮煙霞の癖、余恵頒ち成して楽しみ奈何、 筑前 武谷水城 大善寺恒屋三逕君、其自著日向神紀行を贈る、予久く其の勝を聞いて足未だ其の歩踏其の地を踏まず、目未だ其の人に接せず、展読一過、奇勝宛然目睫に在り、この裏まだ声容を認む君の書に曰く、隻辞を得て以って記念と為さんことを請う、たまたま坐右唐裴説双句を見る恰も君の遊を賛するに似たるが如き有り即ち写して以って粲に供すと云う、 嶮飛千尺の雪、寒撲一聲の雷、 渡遇金造 三沼別の王の昔 をしぬひあへす 八女津媛山 ふみ分ぬらし 録茅山牧園翁之詩を録し恭く恒屋詞宗に贈り大杣後征西将軍良成親王祠堂奉謁. 柳城 岡茂政 大王の蹤跡久く尋ね求む、求得遺文を求め得て来って丘に謁す、古木小堂粛寂甚し、元中の幽寂人をして愁えしむ 大正壬戊夏日、二恒屋君寄する所の日向神紀行を読む 白陽 首藤 寛. 予耶馬渓を観て以て天下の絶景と為す、嘗って加納雨蓬と久留米梅林寺に寓す、人有り曰く、八女峡の勝は耶馬渓に譲らず固く共に之を探るを謀り果たさず、常に遺憾と為す、今恒屋君寄する所の日向紳紀行、八女峡を精写し、奇巖空に挿み、矮松楓に接す、路転じ逕折れ、清流石に激し、ひつ沸雲を生ず、神威赫赫、文気酒脱、何ぞ其れ痛快なるや、他日神護を得ば、則ち予亦た攀躋して以て心を縦いままに賞せんこと必せり、 竹間清臣 水清くいはねこゝしく山さひて 神代なからの日向神の山 大正十年辛酉冬抄三逕恒屋老契、日向神紀行を寄す即ち之を賦し以て謝す、 吉嗣鼓山 手を携えて千山万壑の幽 文詞絶妙時流れを脱す 書窓我を医す煙霞痼 髪髭として媛渓の机頭に到るを 日向神紀行を読み曽遊を憶う 園田 盆 地僻に山霊在り、煙稀景更雄なり、天門攀て易からず、草を薙きて清風に坐す、 三逕恒屋君、頃者日向神紀行一巻を寄す、誦読一過恍として其の境に在るが如し、君日向神に遊ぶ前後二回、一は盛夏雷公威を振るう之時に於ける、一は春信僅かに南枝に動くの際に於ける、想うに峡中の雲煙変幻無窮之奇、或は君の目賭する所、若し夫れ晩秋満山霜に飽くの美、未だ君の詩料に入らず、余深く遺憾となす所、若し幸いに三たび?を日向神に曳かば余亦煙霞の癖有る者、敢えて東道の任を辞せず、拙作一首、予め日向神の晩秋を介し、以って君の来遊を促す、 大正辛酉冬日. 若川川口広人 奇石怪巌鬼鐫を見る 晩秋更覚ゆ景妍を添ゆるを 満山紅葉満渓の水 夕陽に映発波然えんと欲す 恒屋君、頃日、日向神紀行の寄有り、一誦聊か所感を録し言に謝す、 松坡 小林 新 曽遊首を回せば十星霜、追憶魂飛天の一方、 八女の煙霞三瀦の酒、丹精写し出す是れ文章 日向神紀行を寄せられければ 谷 保馬 文作る人のこゝろは日向神の 山より高し水よりきよし 日向神紀行を読み所感、大正十年十二月上旬那覇客舎に於て 巴城 山田米吉 余往年任に肥後山鹿に在り日向神景勝を探らんと欲し果たさず、窃に以て遺憾と為す。今也雲濤万里煙波深き処此の身を寄っす、遥かに山水の景に憧憬たるのみ。偶々頃日三逕恒屋氏、日向神紀行一篇寄す、繙読叙事軽妙、且巻中当代名流之詩歌を併収す、身未だ其の地を踏まず心已に其境の感有り。之に加え観光察俗の間、時に触れ物に感じ慨を時事に寓する。之筆意、著者の人物を髣髴たらしむ者有り。若し夫れ帰途日田旅亭の一夜芳醇を傾け香魚を味うの快有るに到る所以或は日向神山霊水神一行を導いて旅情を慰むるの暗示に非ざる無きか。呵呵聊か所感を記し以って拝謝す。 大正十一年三月上澣直方僑居に書す 筑涯 淺川 雄 当時文辞俗臭紛紛たり、而して尊著時流を趁わず、古雅喜ぶべし、、洵三逕子の真骨頂を想見するに足る、拝誦数過、佩服己む無し。 後凋 松隈元美 日向神之奇勝、耶馬渓に譲らず而して其の名乏に及ばず筆の之を助くる無きなり、余之を憾む久し、頃者、恒屋氏、日向神紀行を著し寄一本を余に寄す、就て之を見る言々金玉の声有り、足大日向神の名を以ってするに足る、余不文之に加うる能わず、唯其喜を叙する而己 (原文漢文) 十二月十七日 佐々木哲太郎 拝呈歳晏風寒愈御清福奉賀候高著日向神紀行御寄示被下御芳志難有奉存候直に拝読臥遊之思を致申候國風藻志富膽殊に感服仕候小生近歳塵覊纏縛茅塞悶痒に不勝候折柄御蔭を以て頓に心地之清浄なるを覧え申候深々御礼申上候尚平素は御無音乍叙御詑申上候也 粛具 筬嶋桂太郎 拝啓未得拝眉の栄候得共御高風竊に敬慕罷在候扨此度日向神紀行御寄贈被下御厚情之段奉深謝候一見仕候処行文流暢叙事平易能く其実景を描し得て妙なりと申す外無御座候余少時曾て此地に遊び爾来裘葛三十年殆んど記憶より離れんとするの時に際し此書に接し再び入女山中の勝地を杖遊するの感有之候惟うに此紀行を播く者日向神の景趣を知ると知らさるとを問わず余と其感を同うする者可不尠從て八女山中の幽境遍く世に著はるゝの日の遠きに非ざるを思えは転た欣快に堪えさるもの有之候山霊水神の悦亦知るべき而已聊か蕪辞を陳し敬意を表し度如此に御座候 頓首 修猷舖長 白坂栄彦 数年前学生百余名を率い日向神の景を探り今尚天下の奇勝たるに憧憬して止まざるに今回恒屋大人より日向神紀行一冊を送らる一読再読更に足其境を踏み眼其景を見るか如く彷佛として奇巌恠石の聳立するを覚え感興止むなし茲に大人の御厚意に封し深甚なる感謝の意を表す 大正十年十一月二十四日 八女郡役所にて 八女郡長 堀 善之蒸 拝啓寒気に相向い候得共愈御健勝被爲渉奉慶賀候陳は日向神紀行頃日御発行の由にて御贈を辱うし反覆誦読仕候先年東京の官人来つて始めて日向神峡に遊び隠れたる天下絶無の勝景なりと賞し近くは職務を以て同峡を過きし大分県出身のものすら其雄大なるに驚きて耶馬以上なりと賛せしことも有之候程なるに耶馬は已に日本の絶勝と謳われ日向神は纔かに県下に於ける名称たるに過ぎす吾人常に深く遺憾に存居候折柄卒然先生の著作に成る名文章の世に頒布せらるゝに遭遇し山陽先生の耶馬を激賞されたると同しく屈竟の紹介と有力なる保証と相成り先以て世間より其存在を認められ頓て天下独歩の勝景として四方に鳴るに至らんこご更に疑あるべからすご確信仕候御厚意に対し聊か叙卑見併せて御挨拶申述候 敬具 |
本書を刊行するに当たり、辱交川嶋淵明、武藤直治、大津山信藏、黒岩萬次郎、森山健次郎、堤辰一諸氏の援助を受けたり、特に、八女郡出身の松尾三藏、中川湊両氏の義侠的援助大なるものあり、是れに依りて、多年の宿志たる、筑後耶馬渓の称ある、日向神の絶勝を広く世に紹介することを得るに至れるは、編者の最も感激措く能わざる所なり、仍て、前記諸氏に対して、厚く感謝の誠意を表す、希くは之を諒とせられんことを謹みて識す。 昭和十五年十月 著者記す |