註 漢文は書き下し文・漢字は当用漢字・仮名使いは現在に変更しています
       

後日向神紀行

 二月九日、山岡茂松氏來り訪う、曰く、此休暇を以て、八女の奇勝を探らんとご欲す、
如何んと、余固より山水の癖あり、直に同意を表しぬ、其夜武内氏にも同行を勧む、
氏も亦諾り。
十日、午前十時、大川を発し、羽犬塚を経、福島に小川敢二氏山内に藤本雲外氏を訪う。
  
  雲外日。 高人の來訪、天、良縁を仮さず遺憾甚し。

 当所より白雪霏々として降り、田本体分に至る頃には雪意太だ酣に、日も亦暮れたり。六時三十分黒木に着し唐箕屋に投宿す。族行の疲努を慰するは入浴に如くはなし、浴室の有無を問えは、陰暦元旦にて休めりと答う、大に失望せり、晩酌を傾けんご欲すれは酒なし、酒屋に求め來れと命すれは酒屋は已に店を閉して眠りに就けりと答う、因て之を詰れば曰く、元朝は金の支出をなさぬものなりとo田舎の堅気には閉ロせり、止むなく晩餐を喫し、三潴か慣れぬ山路に多少疲勢したれは、直ちに寝に就く。

  雲外曰。 一問一答、愈出て愈窮、一行不快の顔色、紙上に躍如たり。

  來城曰。余試みに東坡の口気を学んで之を言わん、曰く湯無し酒無し此の疲労を如何せん。
又曰く日。前遊は雷雨を以って四後遊は風雪を以ってす天君遊を壮とす何ぞ其れ至るや。


山岡氏は何か物足らぬ様にて、戸外に出られしか、暫くにして正宗二瓶を携え帰らる、其の烱眼には一驚を喫せり。こは下戸の余輩か菓子屋を知ると一般ならんかo
 
 山岡後凋日。武内氏は若津之一紳士、素と徒歩を習わず、黒木に到る頃疲労太し、旅亭に着くや則ち病者の如く然り、碑女の為に扶けられ楼に上ぼる、飲まず食わず又語らず直ちに寝に就く、余両人対酌快談、而て氏は蓐中に在り坤吟苦悶、既にして哀哀声を発して日、熟出たりと、是れ亦旅中之一笑話也。
又曰く。此の夜暗黒、殊に陰暦元旦に当たる、各店皆戸閉ず、余殆んど失望す、行くこと二三丁、一商店有り僅かに戸を開いて微光を漏す、密かに之を窺えば則ち正宗数瓶有り、店頭に並列す、余の喜び亦知るべき耳也、乃ち二瓶を購い還って之を開く。何ぞ図らん芳醸非ずして是れ酒精の混成酒ならんとは、恒屋氏商賈の不正を怒り今宵の不遇を嘆く半時許り。

 来城曰。後凋評語、亦自ら奇文を成す、一読覚えず笑い来る。

夜既に暁ならんとす、庭前に黄鳥の啼くを聞きて、例の
     暁のまた 夜をのこす 閨の外に
         春を告けたる 鶯のこえ

                            藤本雲外
 窓紙微白を帯ぶ、幽人眠未だ醒めず、曉鶯庭前に語る、髣髴夢中に聴く、
                            次韻師富藍谷
 己に東方白きを見る、一眠又一醒、窓外金衣語る、遊人耳を傾けて聴く、


 十一日、前日の天候一変して、碧空洗うが如く、朝暾東山を出て、何となく春意を催せり。十一時黒木町を出発し、矢部川に沿うて行く、木屋村を経大淵村に至る、途中に点々野梅の咲くを見る、同行の山岡氏も、亦一首を拈せらる。
       谷川の岩根にさける梅を見て
           深山の奥の春をしるかな

 
                            藤本雲外
 山中暦日無し誰か弁ぜん物華の新なるを、数点渓梅白し、始て知る天下の春、
                             次韻師富藍,谷
 言うなかれ深山の裡、無知る無かれ日月の新なるを、梅花樹三両、早く奏す万里の春、
沼北日。 山扉暁に発し、路渓に沿うて上る、巖問梅花点々、陽谷の霞と相い映じ、詩趣眼に溢る、奇絶快絶、翩を逸し虚を排するの情想うべきなり。
 来城曰。 所謂極苦従り極甘を得る者、人事亦然り。


普天率土、豈に王臣にあらさらん、誠に皇化の治きこと斯くもやあらん。本日は紀元の佳節とて、八女の山里、戸毎々々に国旗を掲げて祝意を表せり。
   大御代の深き恵みそ知られける
       八女の奥にも日の丸のはた
                               藤本雲外
 旗茅星に翻り、佳辰紀元に入る、樵村寥落の境、亦浴す太平の恩、
                              雲外曰。亡父曰、
    大御代の 深き恵みに 柴の戸も
          かゝけて靡く 日の御旗かな
 來城曰。突如來って大江の風無くして浪自ら湧くの概有り。
 蘆谷曰。 古昔筑南の開拓、矢部より始まる、愚以爲らく矢部は即ち八女也、八女山中遐陬と雖も皇化却て他郷の先に在り。毎戸祀意を表す豈今日に始まらん、蓋し国旗を掲げ佳節を祝す、明治維新以後以後の現象、更に都鄙の別無し、君幸いに怪しむ事勿れ。


 夫より十数丁にして、日向神渓に達す。奇巖怪石、矢部川を挟んで聳え、行く行く之を観るに龍の躍るかと疑われ、虎の吼ゆるかと訝からる、其の状其の景真に俗客を罵倒せるか如し、奇巖の名十を以て数う、中に雨戸岩、御幣岩、猿滑岩、法螺貝岩、蹴穿岩、釣鐘岩等を最も著名なりとす。茲に賞観するこご二時間余にして、奥日向神に入りぬ。一層の絶景にて中にも白糸の滝の宛から白布を曝すか如く、苔蒸す巖根に懸り来つて、飛流の珠を跳らし雪を噴ける状、画手も恐らく写し到らざる所以なるべし。例の
   山姫の 織るや千機の 料とかも
      いはほにかゝる 瀧の白糸.

  蘆谷曰。
   山姫の織り出てにけん布よりも.
         たへなるものは 白糸の瀧
                             師富蘆谷
 直立三干丈、飛泉九天に懸かる、之を仰げば虹霓の如し、素素白雲の辺、
 来城曰。 景を写す宛然一讃神往く。


更に行きて北矢部村の一部落蕨原に達す。賎か垣根に梅の咲くあり、
  春來ぬと 咲くも床しな 八女山の
      賎かかきほの梅の初花

 蘆谷曰。
   妻木こる 賎の男の 垣根にも
      ところ得かほに 咲くや此花
 来城曰。 瀟灑致を添う。


 これより一山を越え、一里余にして尾野村仁田原に着す。時已に薄暮なり、民家に一宿を求めたれども、事情ありとて断わらる、族亭はあれごも不潔にして宿するに堪えず、遂に一里程なる千々岩の里まで知らぬ山路を辿りつゝ七時三十分或る小旅亭に投しぬ。.
  行き暮れて 宿を求むる かたもなし
       なれぬ山路の 奥ふかくして
野酒山肴、以て朝来の疲労を消す。
 翌十二日、千々岩の里を出て、十籠なる同窓の高木良友君を訪う、不在なり、契濶の話もあるものを、天良縁を仮さざりしは無限の遺憾なりき。武内氏は小野の里にて車を買うて帰る。
千々岩の里より十数丁もあらん、後より呼ぶものあり、顧れは旅亭の主人なり、曰く宿料に違算ありとて、低頭しつゝ過剰を返戻せり。鳴呼この禽行獣爲の世に在りて、確然とこして人道を守る、豈亦尊からずや、道義は却て山村の裡にあり、亭主人の如きは、実に今世の師表となすに足る。
   おほかたの 人の心に ひきかへて
       入女山かつか 道の正しさ

 雲外曰。 些些たる一善行、君子之激賞を受く、以って世風之如何を卜すべし悲しい哉。
 又曰。 道義は山村之裡に在り、真に名言。
 蘆谷曰。 浮薄軽佻、蓋し開明之余弊也、昭代之民、悉く浮薄軽佻ならんや、世を挙げて之れ 有り、則澆季の世なり。亭主人の行は、善は則ち善未だ師表と為すに足らずと、君爲す所有って爾か云うか。

                              藤本雲外
 軽佻滔として俗を作す、文物新を誇る勿れ、誰か料らん僻陬の地、斯の醇樸の民を出す、
 来城曰。 作者世を憂い時を慨くの情境に触れ感発し読者をして顔魄を動かさしむ。

 山村の風、淳朴愛すべし。帰路は星野川に沿うて下る。沿岸に梅十数株あり、蕾を破るを見る。
  星野川 岸への梅も 春來ぬと
      人待ちかほに 打ゑまひつゝ


                              藤本雲外
 吟骨水よりも冷なり、来り尋ぬ渓上の春、梅花意有るが如し、一笑遊人を引く
       
 
又、星野川の清澄、真に掬す可し。
   星野川 底のさゝれの かけ見えて
        はるゆく水そ すみまさりけり
三里程にして北河内村に出づ、村の外れに眼鏡橋あり、洗玉橋と云う、二十六年某月架する所、夏時涼を納れ、蛍を撲つの候、尤も散歩に宜しからんご思いぬ。当地は星野路の産物を集むる所にして、一小市街をなせり。山の手浮世を避けしばかりの家あれは、
   世の塵を よそに見なして 住む人の
       こころや如何に 長閑かるらん

 
 蘆谷曰。
 呉竹の うき世の中を いとひてや
     深山の奥に 人の住むらん
                                師富蘆谷
 聖朝遺賢無し、何の処か隠士を求む、巣由の徒知らず、屋を構う碧山の裡
来城曰。 蓼蓼百余言中、数事を記し簡明比無し、何等の手筆ぞ、


夫より長野を出て福島に至れは、日已に暮る。即ち腕車を買い、午後九時大川の僑居に帰りぬ。


不佞疑園主人に於ける僅かに一二面識有るのみ。藤本君に於いては多年之知友なり。適々来って芳草を示さる、我が地方の事に繋がる所なり。故に妄評を加え、之に添えるに蕪詩数篇鄙歌二三首を以ってす、豈一笑に充るに足ん哉。却て汚点を美玉に加うるを知る、多罪。
                              筑南師富蘆谷
奚疑園主人、遥に此の篇を寄す批評を懇請す。予久留米に生まれ、八女に長ず。足其の境を踏み、眼其の景を閲みす、一読の際、山光水色宛然前に在り、覚えず神魂飛越。唯恨む所は、今夏疾に罹り坤吟数旬、詩歌相和して助くるを得ざる是なり。病間葆浣仙史に寄するの七律一首有り、写して左に録す。
 疾を抱くの身苦熱の身兼と 呻吟仰臥三旬ならんと欲す 
 青山緑水徒に夢に通ず 黄巻丹書未だ真を悟らず 
 竹を成す応に宿果なるべし 魚将と伴を結ぶ前因 
 白雲一朶来る何れの処ぞ  頓に覚ゆ清風の六塵を払うを
                            大正甲寅八月    辱交本荘掬水

縷縷数千言、一読目に其の勝を探り足に其の境を経るが如し、欣羨奚ぞ堪えん。国調数首、麗艶流暢、以て人をして其境遇を想像せしむるに足る敬服の余、一語を題し還璧す。
      巳亥重陽後一日           独臂翁  吉嗣拝山

  日向稗紀行ノ後二書ス
 己未秋夕、微恙辱二臥ス。偶恒屋君三逕、来テ日向神紀行ヲ示シ、且告テ曰ク、我南筑八女ノ勝ハ、必スシモ豊ノ馬渓二下ラズ、而シテ其世ニ著ワレザル者ハ、人ノ之ヲ著ワサザルニ由ル、是拙陋ヲ辞セズシテ此作アル所以ナリト。予深ク其ノ志ヲ喜ブ。因テ顧ウ往年藩学明善黌ニ在リ、時晩冬八女ニ遊ブ、一行八人、曰、内藤寒山、江碕巽庵、小井東軒、赤星湘南、大坪荘吾以下姉川健、牛嶋正、及予年少テ以テ之ニ從ウ、敝衣結髪腰ニ長刀ヲ横へ、昂然程二上ル、其状殆ど梁山伯中ノ徒ニ髣髴タリ、就中東軒湘南ハ酒豪自ラ誇リ、一飲数升鯨ノ如ク、蟒ノ如ク、酔ヘバ則談論風発声屋二震ウ、而シテ健ト正トハ、放飯流啜リヲ尽シ、釜ヲ傾ケ、到ル処駅婢亭娘ヲ驚カシ、共ニ此行ノ話柄トナル。鳴呼今ヲ距ル五十余年、鴻爪迹無ク、其人多クハ幽明ヲ隔テ、其詩其文亦皆散亡、一モ後人ヲ益スル者アルヲ見ズ。豈此巻ニ対シテ忸怩タラザルヲ得ンヤ。蓋シ本書幸ニ世ニ出テ広クク郷土ノ勝ヲ宣揚スルヲ得バ、啻ニ山水ノ霊ヲ慰ムル而巳ナラズ、併セテ予ガ輩前游徒爾ノ罪ヲ償ウニ足ラン歟。三逕跋言ヲ徴スルニ当リ、懐旧ノ感禁スルコト能ハズ、乃ち之ヲ書シ聊力責ヲ塞クト云。返璧稽緩、病中文ヲ成サズ、願クハ恕セヨ。、
                         大正庚申晩春   竹江若林 卓

余ノ恒屋、島二君卜、八女ノ遊ヲ共ニセシコト、屈指スレハ既二廿余年ヲ経過シ、記憶ノ予ヲ去ルモノ少シトセス。而シテ今偶マ此巻ヲ繙クニ、當時ノ風物山河歴然トシテ眼前二展開シ来ル、夫レ豊ノ山、筑ノ水ハ、依然旧態ヲ存スト雖モ、同遊ノ士島君ハ、既ニ隔世ノ人タリ、人事ノ恃ミ難キヲ知ルベク・悲シムベキ哉。恒屋君ニ至リテハ、老テ身益健、志倍剛、譬バ勁節ノ松、虚心ノ竹ノ如シ、凌霜冒雪貧賎自ラ忘レ、世ニ於テ羨ム所ナク、其光風霽月ノ心事、誠ニ以テ珍トスルニ足レリ。几ソ天下ノ好書ヲ読ミ、天下ノ好山川ヲ観ル、予ニ於テ未ダシト雖モ、天下ノ好人ト交ルニ至リテハ、予敢テ人後二落チズ。而シテ君ハ正二天下ノ好人タリ、予幸ニ君卜交チ結ビ、君卜遊ヲ同ウス、今ニ及ンデ之ヲ追思スルモ、亦欣感ニ堪エザルモノアリ。聊カ一文ヲ草シ、巻末ヲ汚すスト云爾。
                        大正十年初秋   渡邉李村


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