奉仕の家々
一二、奉仕の家々

玉垂宮に奉仕する家々は昔から色々あった。
神職に大祝おおはふり・小祝・大宮司等があったが、中世以降神佛混肴の時代には多くの寺院僧房が建てられて一山の実権は座主の手に帰し、以って明治初年神佛判然令が下されるまで続いて居た。然して其等の家々は多くは世襲していたようであるが、其の血脈関係に就いて「旧大祝家傳」に「白鳳年間、武内宿禰の裔美濃理麿保続の一男保義初めて祝職となり、二男良続は武臣となり、三男保依は出家し隆慶と号して 妻帯の僧となり、四男保通は大宮司職に任じ、五男連成は日下部(草壁)を氏として神管領となった」と云っている。
然し、以上の所謂神裔五氏と言うものも色々の異論があって断定は出来ない。例えば「高良山高隆寺縁起」には「五姓氏中、丹波氏は俗体大宮司職、法体は座主職、物部氏は大祝、安曇部は小祝、草部氏は下宮二の勾當、百済氏は別当」といい、ある説には「丹波氏が、座主兼大宮司、物部氏は藤大臣の乳人で大祝嫡男、小祝次男、安曇は俗体大宮司法体座主職、前田氏は下宮大宮司、草部氏は御貢所を司る職である」と云い其他多くの異説もあるが、又、
是等は皆一時補佐の官であったが其中には氏人として世襲した者も勿論あるだろう。此の五氏は皆出を異にし物部・安曇は神別、日下部は皇別、丹波・百済は藩別である、然るを皆同族としたのは姓氏録だに見ざる後人の偽作である。(船曳鉄門説)
とさへ云って居るのもある。 大祝は鏡山を氏として後代まで神社に仕え、武臣となった武管領は後年神代(三井郡山川村)に移って神代を氏とし、大宮司職は後宗崎(高良内村)に移って宗先氏となり、神管領日下部氏後年稲員(いなかず)(三井郡)にうつって稲員氏を称した。其の他時によって権大宮司・神主・神管八人・乙名十二人・守衛の武士百二十人など居た事もあるが、中世以後の実権は名実共に座主の手中に落ち、為に社家との間に内紛の起きたこともあったが、到底座主に抗することは出来なかった。

○                 中村水城
集め集めて たれふみ見よと いさめがほにも このしたやみに とぶやほたるの
  みだればし

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