隆慶が初めて開いた寺院はこ高隆寺と云った。
其の因縁に就いて「高良山寺院記」中に「白鳳六十年丁丑四月廿二日、阿曇多知尼少女に託して隆慶に告げて曰く、汝須らく三宝に帰依し浄業を修すべし、勝地幾(ちかき)にあり」と、又「高隆寺縁起」には「白鳳十三年二月八日、国書生清原真人道理聴進を視、名神御厨預り物部公岡麿、祝部物部公有憲、勾当阿曇公吉禰麿、神部公常仁、弓削郷戸主草公、同月十四日早朝、国宰の夢の示現に依って、力を合わせ林中の荊棘をかり払い、石岩を引きて平らにし、仏殿を草創し、便ち、五間四面の精舎一宇、五間七間の雑舎一宇を造作し、弥勒像一駆、毘沙門天像一駆を造り奉り、堂の母屋に安置し奉り、大明神像一駆を造り奉り、南の母屋に安置し奉り、庇一間是れ則ち太神宮寺法名高隆寺なり」とある。
年号に就いて、又其の造営の動機などに就いては異説もあるが天智天皇の御世である事は皆一致して居る。
然らば其建立の場所は何処か、「御井寺記録」に「隆慶が夢告を受けた時、館の東北に当たって夜奇光を見て尋ねたが、一つの霊木があったので、仏縁を刻み、又、荊を開くとき一寸八分の黄金仏を得た。
白鳳六年六月から翌一月に至り本堂が落成したが、此地は神功皇后征西のの営地の址である」と云って居る。当時の大祝の宅址が今の鏡山神社の所であるとし、隆慶のまだ其の時まで大祝宅附近へ住んで此の奇光を東北に見たとすれば、旗崎の南寄り地方、即ち茶臼山の方角で、以って神功皇后御営地の跡と云うのにも符合する事となり、高隆寺が初めて建てられたのも其の処であると云わねばならぬ。
「大祝旧記」には「佛法を禁じて居たから高良山の外に建てた」と云い「高良記」には「明星嶽であった」と云い、又「寺尾山であった」とも伝えられ、高良神社神庫の古図(元禄年間)には明瞭に北谷の丘山に描かれ、「太宰管内志」には「高良宮の正面より直に下れば則高隆寺の跡がある。此寺から又下れば追分のほうへ出る。高隆寺は元三大師の後ろ少し下にあたる」と云って居る。以上を見れば高隆寺の位置は判らなくなって来る、が最初旗崎附近に建てられたものが各所を転々し最後に北谷に移ったものであろう。
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高良秋月 源 泰賢
山依神徳冠西州 樹裏金堂映月幽
何况千畦豊塾後 影明亀玉嶺頭秋