神裔の末路
神裔の末路

所謂神裔五姓氏中、丹波氏を称した座主家の血統は第四十八世玄逸を以って断絶した事は前述の通であるが、其他の四氏はどうなったか。

大祝鏡山家は永正年中大友義鑑の幕下となり、天正十年邊春城陥落の時は安常戦死の功によって子安真は大友義統の感状と共に六十町の采地を恵まれ、神事と武事を兼ねて居たが座主家の勢力強大になるにつれ次第に圧せられて衰微し初め、秀吉征西の後は専ら神事にのみ與り、秀包によって贈られた神領千石の内十五石の分与を受け以って明治維新に至った。御井町宇賀輪に鎮座ある鏡山神社はもと大祝所領地内にあってご本体所と称して居たを維新後現称となしたのである。

神菅領草壁家は延暦二十一年(西暦802年)保只の代に稲員村(三井郡)に移って稲員氏を称し、其の裔良参は正応三年(西暦1290年)上廣川庄(八女郡)古賀館に転じ一時は七十町を領して居た事もあったが、戦国の時良維は大友の幕下となり、永禄十年安忠は大友に戦功を立て、天正九年肥前軍襲撃の時は安茂父子は能く防ぎて是を退け(稲員文書)、同十年三月安茂邊春城戦死の折は大友は感状と共に廿五町の采地を与えて是を賞し同十二年黒木(八女郡)の戦いにも大友の為に尽くす所

があったが、十四年島津勢に改められて居館は没落、安守父子は一時難を豊後に避けて歎友に頼ったが秀吉征西の時より領地を失い、後は廣川村古賀の大庄屋となって居た。

 大宮司家は天文年中孝基が御井町より宗崎を氏とし、永禄頃より政基・子孝直共に大友に属して屡々戦功を立てたが秀吉征西より一時は領地没収、後秀包より十五石を分与されたが、元和中領主田中吉政は三十五石を加増(宗崎文書)して五十石となし専ら神社に仕えしめた。

 武家菅領家は白鳳の頃良続武人となり神代(山川村)に舘し神代氏として代々此の地に在って居た。良忠が元寇に際し殊勲を立てた事は前述の如く、其後戦国の頃、顕元は出亡して肥前に奔り、後鍋島藩へ仕え後年は六千石を食んで居た。

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