高良の名義
 二、高良の名義

高良は現今コウラとよんで居る、是に就いて「古羅こらと訓まねばならない」と云うものもあるが、栗田寛博士は

 古事記伝に高良を今はコウラとよんでいるが、高の字は古書に多くコの字の假字に用いたからコラであろうと言って往々コラと読む事もあるが恐らくは間違いだろう。鈴鹿連胤が考に高良は加波羅と読まねばならぬ。其の證は高良も香春も同名で、高の字を加波かばと読んだのは、日本記孝徳の巻に「天皇蝦蟇かわずの行宮に御す」空穂物語の歌に「河津なる柳が枝に」とあるのは摂津国高津の宮の事で著しく、豊前国風土記に鹿春かはら郷があり、今も香春山の麓に河原村あるも同じと言って高良も河原も共に河海の水が乾涸して干潟となったところの称であると結んでいるが、尚「神名帳考證」にも「高良は乾涸の名、潮涸の瓊、名を為すか」と記してある。現在高良山の東南方高良内村杉谷から発し合川村を通って筑後川に合流する長さ約三里の高良川があるが、昔弘法大師が巡錫じゅんしゃくの折、子の河に大根洗う女を見て一本を消耗したところ、女は惜しんで與えなかった其の罰で、大根のある期間は一滴の水も流れないといわれるほど、一面の河原で蔽われた河の存在もこの間の消息を語っている。是の河水は地文学的に言えば伏流作用の然らしめるものであろうが、然し其の河原が昔は非常に廣くて高良川の南部高良内村から御井町から合川村あたりまであったかも知れず、現在の牟田川練兵場南方の台地を高良台と言っているのも、牟田山は牟田、即ち沼澤の意で西方西牟田等からいりこんで来ていた入り江の一部、従ってその南方が水の涸れた河原、すなわち高良の台地であったと考えられないこともあるまい。それ等から推して高良は河原の意味の転訛であると云う説も肯ぜられる。 或る学者は高良は河和羅かわらで、よろひの古名であると言い、高良玉垂宮こうらたまたれぐうの祭神武内宿禰が三韓征伐のとききて居た甲を祭ってあるから名付けられたと云う説もあるが、高良なる地名は神宮神功三韓征伐を遡る約百二一年前、景行天皇の御巡狩の時「高羅(高良)の行宮に行幸遊ばされた」事が「肥前風土記」に出ているのを見れば、其の時代錯誤たることは了解せられる。尚外に高良とはコムラから来たもので、高牟礼はコムレ、不濡はクナリで共に大部落をいみする朝鮮語の転訛であると説く学者もある。

嬉しさはぬれせぬ山の月夜哉    鳳覧

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