第五十五世傳雄が物した「高良玉垂宮略記」の口絵「高良山今時図」は寛政頃(西暦1790年頃)の山の景観を知る貴重な資料である。其の概要を述べれば、御手洗池の反り橋を渡って左に高牟礼神社(現高樹神社)、少し登って延壽院・普門院、右側に本壽院など並び建ち、九丁目なる現宮司邸の門が本坊門、其奥に本坊(蓮台院)を初め護摩堂等の甍聳え、其の上に高く築き回された塀の中に三代将軍の霊屋・寶蔵・御供所等がある。門前参道に沿うて谷川の流れを越した右上に真如院、其の上段(十二丁目)が「行きたほれ観音」と云う観音堂、更に上段に文殊院、(十三町目標石から)左に深く入りこんで命静院,其の奥に円妙院、参道を殆ど上り詰めて左折する曲がり角,一間茶屋、(今は竹薮)の横に不動堂、それより立ち並ぶ石灯籠の間を北へ行けば「高良玉垂宮」の額ある木の鳥居、今と変わらぬ百五十余の石段を登れば玉垂宮の本社に達する。社殿は現時と変わりないが、左側西より番所・本地堂(現社務所の処)寶蔵・神輿庫が連なり、是等と社殿の間に東西二株の枝振り面白い古松があって各々垣を廻らしてある。社後は左より豊姫社・山王社・八幡社・風浪社・間真根子社・留守殿と右へ並び、神殿の南広場に井戸、其の右方の山上に鐘楼。其の西に大日堂・経塚・三重塔等皆高所に建てられ、社の西南方二軒茶屋、其の西北に神楽殿、拝殿前の敷石を挟んで狛犬一対は現の如く、手水鉢は其の南東、今の手水鉢の位置と見るところには高さ数間の蓮華型大水盤から瀧なす水が流れ落ちて居る。尚全景を通じて三々五々参者の群れが見える、是実に今から百四十年前の景観である。
序に其れ等建造物に於いての来歴を略記すれば、神殿拝殿は萬治三年(西暦1660年)の造立で工匠の棟梁は当時名工と云われた平三郎である。神門は安永六年(西暦1777年)七代藩主頼憧の新建、山下の石の大鳥居は明暦元年(西暦1655年)二代藩主忠頼野鬼神である。其の石材運搬の状況を紹介しよう。
石材は石垣山(浮羽郡水縄村)産の御影石で、前年たる承応三年十一月から久留米領民十五歳以上六十歳以下の者全部をして挽かしめた。石垣から矢作(三井郡草野町)までは生葉竹野山本三郡の郷民、十五日から十七日まで三日間を要し、矢作から放光寺までは御井御原両郡の郷民で、十八日より廿日まで、三日間を費やし、放光寺より阿志岐までは上妻下妻の郷民廿一日より廿五日まで五日間掛り、阿志岐より高良山の麓までは三潴の郷民で廿六日から廿八日まで三日間、総計十四日間を要したが、其の柱石は一本に一千人宛、貫石・額石等は或は三百人或は二百人で是を挽いた(大祝旧記)
○
玉垂古松 北村季吟
千歳へし陰といはひて玉垂の 神世にたれか松をうえけん