神幸の次第
三四、神幸の次第

往昔玉垂宮大祭の時は大宰府から勅使がたち(筑後志略)九州中のの国司・郡司が群集して其の儀式を執り行って居た。此の時は小貮・大友・菊池・島津の四家が祭儀を司り、当社に属する百二十士、国中三十六士、供奉の者一千余人、極めて厳かな祭事も行われて居たが、乱世の後は久しく中絶したので、寛文九年(西暦1669年)、一山の神職僧徒は是を歎いて再興し稍古禮に復したが、間もなく止んで、後四十五年を過ぎた正徳五年、六台藩主則維は廃絶を惜しみ三年一祭をの定めとし翌々年たる享保二年十月を期して大祭をを行い神輿を朝妻に移し封内の神官悉く供奉したが、其の後毎年九月九日に例祭を行う事となった。其の頃の大祭神幸の有様は次ぎの様である。

十月十一日酉刻(午後六時)一山の衆徒大祝大宮司は宮の拝殿に集まり、神人神楽人が悉く着座すれば惣専当を以って座主の出仕を請う、座主は輿に乗って宮に上り内陣に着座する、衆徒は拝殿で梵音を唱える、勤行が済めば承士使両祀家に命じ内陣に入る、大宮司は御戸を開き、大祝は神躰を神輿に移す、此の間間断なく神楽を奏する、神輿を拝殿に舁ぎだし御膳神酒を調進し、垂れば衆徒は懺摩を唱え社人は祝詞を誦し座主は幣を奉る(中略)十二日朝夕供物を調進し終日神楽を奏する、日中には法華八講を勤め、日没後は松明を立てゝ美麗太夫は式三番を勤める(中略)十三日巳刻(午前十時)座主以下出仕し、供物を調進し、社人神人寺社衆の共人一千余人、宮から朝妻に到り神輿を仮殿に奉安する、亦供物を調進し衆徒は伽陀を座主は祝詞を唱え社人は神楽を奏し太夫は竹の舞獅子舞田楽を勤める(中略)申刻(午後四時)朝妻から下宮二遷し、供物を調進し、衆徒の一搶j詞を読み、本家良宮両座の盲僧数人下宮の芝居で心経を誦し、又茶園の桟敷で神酒を献じ、太夫は一曲を奏する、上の宮に還幸して神体を御殿に納め、前の様な法をなし大衆社人は再拝して退散する(高良山神幸次第記)

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