高良山が筑後三十三箇所順礼札所の一に選ばれ、民間信仰の道場となったのもこの頃の事である。
此の三十三箇所順礼が巡拝する第一番霊場は高良山本地蔵第一霊場は高良山本地堂堂(十一面観音)で第二番は観興寺(山本村、千手観音)第三番観音寺(浮羽郡水縄山村、十一面観音)と水縄山麓に沿うて東に行き三井郡より久留米へ出て三潴郡より八女郡の西部を過ぎて三池郡へ回り引き返して八女郡東部に入り鹿子尾なる霊巌寺を第三十三番の納所とする、其の行程は四十六里三十町半といわれ、創始者は三池郡普光寺及び山門郡永興寺の住僧である。観音信仰の巡拝者が次第に増えてきた時、藩主頼○は安永六年(西暦1777年)委しく従来の各寺に就き本尊の彫作を吟味させて不適当なもは代へ、又自ら各霊場を巡歴して番付の立石と掛札を寄進した。
宝暦十四年(西暦1764年)頃から行われ、弥陀の四十八願に因んだ阿弥陀仏四十八箇所巡拝も此の頃は盛んになって、高良山極楽寺は其の第四十六番札所となり、同十一年、下妻郡北長田村芳真なる僧が四国八十八箇所巡礼をなし、各霊場の土砂を一握りづゝを持ち帰って筑後の寺々に納めたと云う筑後八十八箇所にも高良山本地堂や奥の院は選ばれ、斯観音信仰の三十三箇所、阿弥陀仏信仰の四十八箇所弘法信仰の八十八箇所、其れ等の総てが集まった高良山は大衆向きの明神霊場ともなり、是等の信者が雑踏して居た。