大石・長野水道完成から8年の後、寛文13年(1673)に袋野遂道の事業が着手されました。中心人物は吉井の大庄屋田代弥三衛門重栄。彼は先の大石・長野水道工事の折には各村庄屋の上にたち、奔走して疏水を完成させたのですが、両水道より上流の上郡中、山春、大石村には代わらず水が乏しく、重栄は心を痛めていました。
大石・長野水道完成から8年の後、寛文13年(1673)に袋野遂道の事業が着手されました。中心人物は吉井の大庄屋田代弥三衛門重栄。彼は先の大石・長野水道工事の折には各村庄屋の上にたち、奔走して疏水を完成させたのですが、両水道より上流の上郡中、山春、大石村には代わらず水が乏しく、重栄は心を痛めていました。
寛文12年(1672)、重栄は豊後、筑後の国境である原口村袋野-獺之瀬-から地下を迂回し、岩層を貫通して遂道七千尺(約2.1km)溝渠をつくり水を通すという工事を久留米藩に申し入れました。重栄の願書を受けた藩が実地調査に丹波頼母重次を現地に赴かせたところ、重次はその計画が大胆で緻密なのに驚き、「寸分相違なし」と報告し工事は着手されました。袋野の地は断崖絶壁の峡谷で 、強固な岩礁は手に負えるものではなく、重栄は中国筋の金山から工夫数十名を雇いいれ、鍛冶屋を予備寄せて鶴嘴を作らせました。掘削機械も何もない全くの手掘りです。坑内はサザエの殻に菜種油を入れて灯りに使い一寸刻み出前に進んでいきました。 遂道の高さは馬が自由に行き来できる程度で、一日わずかにニ、三尺(9.1cm)詩化すすみません。獺之瀬からは筑後川の川岸に沿って一直線に、川の蛇行しているところは横断して地中深く掘り進む、明り取りの穴も取れない難工事だったといわれています。ところが、遂動が完成し獺之瀬に水門を開いて河の水を入れたものの、水は一滴も入れることができませんでした。
既にこのときには幕府からの借用銀も自己資金も費やし果たしていましたが「再度幕府に哀願するのは男子の面目にあらず。せっかく之ほどまでに力を尽くし、打ち捨てる葉あたかも仏作りて魂入れざるに等しく、実に残念のいたりなれば、家を破り産を傾くともなし遂げさるべからず」と決意新たに工事に着手したのでした。大木を切り、巨石を運んで、井幹(井桁の骨組み)で川底を固めることになりましたが、流れは急にして水深く、一人もその中にいろうとするものなく工事は難を極めました。このとき重栄は60歳の老体でしたが、自ら巨大なさをを水中に立て、これを伝って水底に入り自ら多数の井幹を据え付けたといいます。更に舟二隻で杷木より六尺立方余の大石を運んで筑成し、遂に水を水門に入れることに成功したのでした。久留米藩士中村観濤は「殆ど人力の及ぶところにあらず」と賞賛しました。大石、山春地区には、現在約390haの水田が広がっています。
重栄が亡くなったのは72歳。人々の尊敬は深く、袋野の地に田栄神社として祀られています。
山北にある夜明けダムから下流へ約1kmのところに架かる「潜橋」は、浮羽町と大分県の日田の県境をまたぐ78mの欄干のないコンクリート橋で大雨で川が増水すると水面下に姿を消してしまいます。橋の近くにある「保木」という地名は、かって橋のない頃に、いかだを組んで材木を下流に流していたことに由来しています。
明治40年「蒲団」を発表し、赤裸々な人間描写とともに自然主義文学の先駆をなした田山花袋。「水郷日田」という紀行文には日田の#芸姑たちや友人と遊んだ保木公園の思い出が描かれています。 『浅い草むらの中から女の派手な着物のチラチラするのが見えた。保木の公園はもうすぐそこだった。舟を棄てて上陸したところは、半ば林の中で半ば河原に沿ったようなところだった。雨後の草の露がともすると足をぬらした。これが普通に綺麗に掃除された公園であったら「ほう、これが田舎の公園か」と思ったぐらいで通っていったであろうが、あたりがいかにも荒廃していて殆ど構いつけないくらいになっているような荒蕪の中に、錆びた池があったり、真菰がいっぱいに繁っている中に菖蒲が半ば埋められるように咲いていたりするのが一種芸術的心持ちを私に誘つた。(中略)荒廃した園野、そこに大勢で自動車で来て私を送ってくれた女達、その対照が私にたまらなくよかった。』 花袋は、県境の公園でのこの別れの情景が、いつまでも記憶に残るだろうと結んでいます。
潜み橋。渡し船しかなかった川に橋がかかったのは1953年の 筑後川大水害の時で、以来、なくてはない橋となった。 NEXT BACK TOP