河北家は12世紀から800年間、浮羽の地に27代続く楠の森囲まれた旧家です。屋敷を囲む竹垣を毎年旧正月に結いなおす「垣祝い」の行事、台所に掲げられる巨大な海老の注連縄など、中世を忍ばせる民族的に貴重な祭りごとが数多く残っています。
日本金台美術史研究の先駆者であり、美術評論化のりーだーである河北倫明氏は、この家に生まれました。文部省美術研究所での研究傍ら、ユニークな視点と鑑賞眼で瞬く間にジャーナリズムの寵児となった河北氏は「花開時蝶来 蝶来時花開」という良寛の句を愛し、作品を花に、批評家を蝶にたとえました。批評家の地位を確立するために「美術評論家連盟」を結成しテ会長を務め、自分と雅枝夫人の一文字をとって「倫雅美術奨励賞」を創設し、美術研究の人材育成と郷土の美術発展にも力を注ぎました。 絵画展で河北氏がふりかえった絵は世に出るといわれ、埋もれていた夭折の天才画家青木繁や坂本繁二郎を世に知らしめたのも河北氏でした。斬新な視点の展覧会は常に人々であふれたといいます。95年に80歳で亡くなるまで、「美の心を芽吹かせる春風を吹かせたい」と近代美術の政界に奔走し、舞い続けた生涯でした。
真竹を幾重にも立て、四段の孟宗竹に縄で結いつけた竹垣。 毎年新しい孟宗竹を最上位に補充し、順次下にずらして下の段をはずす「垣結いは」、中世では各地の庄村の領主の館や地侍の屋敷で行われていた。今、北部九州では河北家だけしか見ることができない。
宇宙飛行士エリソン・オニヅカはスペースシャトルチャレンジャー号爆発によって38歳の若さで亡くなりました。世界中が目撃した悲劇の3年前、祖父母の墓参りのために立ち寄った。故郷の浮羽中学校で、「夢に挑戦しなさい」と子どもたちに語りかけたオニヅカ氏・96年、うきは夢酔塾の招きでローナ夫人が浮羽町を訪れ、その思い出を語っています。
「エリソンが83年に浮羽町へ来たのは宇宙飛行士のPRのためではありません。世界のどこにいても幸運はあるのだとわかってもらうために来たのです。ひとりひとりが、自分の夢と希望を実現する主人公なのです。86年エリソンがスペースシャトルに乗り込む時、私たちと娘は5q離れたところから打ち上げを見ていました。私たちは彼が宇宙へ行き、ここに帰ってくると信じていました。しかし、帰ってきませんでした。心がうち砕かれ悪夢だけがありましたが家族や友達の愛、世界中の人たちの信頼と思いやりで私たちは新たな生活をふみだしました。浮羽町を訪れた時、彼はルーツであるこの町で特別な感情でいっぱいになっていたようです。短い人生の中で、彼の原点を知る上で大きな意味を与えてくれたことに感謝します。
浮羽中学校を訪れたエリソン・オニヅカ。 大石地区には、エリソンーオニヅカを偲ぶ橋がかけられている。
「筑後川は諸史に著われ実に天下の大水なり」と碑の冒頭には刻されています。寛文4年(1664)に五庄屋が中心となって筑後川に堰をつくり大石・長野水道を構築・その後、田代重栄が私費を投じて袋野隠道を掘削して、浮羽を穀倉へと変えました。大石・長野の両堰に袋野堰をあわせて世に「三堰」と称し、この偉業を讃え文政10年(1827)に悠々と流れる大石水道のほとりに碑が建立されました。
袋野隠道からの用水路は三春の原において七つに分流されます。そのための施設が通称「七つ溝」と呼ばれている・三春てんびんです。「てんびん」とは水を秤分ける意味で、各用水路の方向、面積に応じて取り入れ口の広さを変え分量を調節しており、そのためのてんびん石は当時のものが使用されています。
浮羽を肥沃な穀倉地帯に変えた大石堰。今は釣りの名所でもある。