環境庁の「名水百選」に指定された清水湧水は、臨済宗清水寺の境内に静かに湧き出ています。建長元年(1249)常陸の国の日用比丘という僧が諸国遍歴の途中に立ち寄りうっそうとした木立の中に湧き出る水を発見してその地に庵を開いたとされ霊水としてあがめられています。
750年こんこんと 名水百選の中の名水
湧水量は一日700t。750年もの間飲料水、生活用水、農業用水として地域の人々の暮らしを支えてきました。湧水は年中水温17度を保ち、PHは4と極めて良質。水を求めて毎日たくさんの人々が訪れ、地元住民100人でつくられた「清水湧水保存会」によって大切に守られています。
古いほどいい?
昭和60年、環境庁は全国で800の応募の中から「名水百選」を選びました。その100ヶ所の水を金沢大学理学部が採取しトリチウムという物質を測定しました。トリチウムとは自然界にもともと存在する自然放射能物質で宇宙線が大気中で酸素や窒素に衝突して生れ、水のかたちで環境、食物、生物に含まれます。しかし、原水爆実験の影響でトリチウムが自然のレベルを大きく上回る時期があり、現在でも雨のトリチウム濃度は自然界のレベルより高いのが普通です。名水百選の中でも京都の「伏見の御香水」や「清水湧水」は1リットルあたり5ピコキュリー。これは自然の濃度よりも低い値にまで減少したもので、数十年以上も前に地中深く貯蔵された水だといわれています。
上・右/湧水は古くから住民の飲料水や農業用水として使われてきた。夏は冷たく冬は不思議とぬくもりさえ感じられる。
賀茂神社
賀茂神社は南北朝時代の正平元年(1346)に征西将軍、懐良親王が九州を兵乱や戦禍から守るため、領主山北四郎大蔵永高に命じ、山城国愛宕郡賀茂下上大神を祀ったのがおこりといわれています。時の大宮司は熊懐平馬太輔行景でした。
御神体の炎を消した
みそぎ石
その後天正七年(1579)に大友宗麟の配下柴田嶺能の兵火にみまわれ、社殿や宝物などが焼失しましたが御神体は境内を流れる川中の石に移され、水を注いで類焼を免れたといわれ、みそぎ石として現在も残っています。その後日田親永らによって再興され、歴代の領主や郷土の人々に代々崇敬されてきました。 賀茂神社の大祭、浮羽おくんちは正平16年(1361)に懐良親王が賀茂神社を再興の時、京都の賀茂祭と同じ様式で行ったことに始まると伝えられています。戦国時代に一時途絶え、寛永2年(1625)に復興されました。
600年続くこども楽
早朝若い衆が獅子頭を鳴らして町中をまわり,神社で神事が行われた後、早乙女の神楽舞が奉納され、御神幸が始まります。若衆の毛槍組、子ども毛槍組の後に稚児行列やお供が御輿を中心に200mの行列をつくり、賀茂神社から隈上正八幡宮までお下りします。中でも雅な曲調のこども楽は600年の歴史があるといわれ、永い伝統に育まれた浮羽おくんちには約3万人の参拝者が訪れます。
サーヨーヤーセーというかけ声とともに、若衆の毛槍の房毛が舞う。
●下組のくん場
長寿の里の干年の流れ
隈上川から引いた水は、夏は冷たく、水質もホタルが乱舞するほど。
浮羽町は、水が自慢です。日本全国の上水道普及率は96.3%ですが浮羽町は0%。全て地下水でまかなう、全国でも希な水道メーターのない町です。 今も山北の下組地区には集落を縦横に流れる石積み水路が残り、地元の人は「くん場(汲み場)」とよびます。賀茂神社の境内を通り集落に続く水路では、毎日のように地元、の人々が洗濯をし、子どもたちが魚取りや水遊びをしています。水路は一帯の水田が開発された天平18年(746)以降にできたもので、住民が「浮羽の長寿の里」と自慢する生きた石積みの水路の町並みは、千年の時を刻んでいます。
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