道の駅うきは


道の駅うきは

国道210号のバイパスを挟む急峻な谷を抜けると、目の前にぱっと開ける西見台の丘に「道の駅うきは」葉あります。古代の戦略的幼少の地に立ち、デッキから見渡す田園風景とともに「くどづくり民家」をモチーフとした大空間が広がるこの道の駅は、2001年4月の1周年で利用者が100万人を突破した、うきは自慢のグリーン・ツーリズム報発信基地です。

なにもない>山里に100万人
農産物はその日のものだけ

道の駅では新鮮な野菜、果物、特産品など、農家がその日の早朝にとれたものだけを毎日持ってきて、割安で販売…しています。価格は100円位で、「交通費を使っても安くて美味しい」とはるばる足を運ぶ人もあり午前中に売り切れることも。棚田のお米に棚田の地酒、一の瀬焼きと、「うきはブランド」がところせましとならんでいます。

道の駅のサルカニ合戦

さらに、カニやホタテが並んだ北海道の枝幸町コーナーもあります。これは浮羽町にある「サルカニ合戦」のカキの木にちなみ、「カキとクリとうすはあるのに、浮羽町にはカニがないなあ」と北海道庁に問い合わせたところ、毛ガニ水揚げ日本一の枝幸町との交流が実現したもの。 浮羽の素材を使ったレストラン「からうす」のうどんバイキングやソフトクリームは行列ができるほどの人気で、ミニ棚田、写真コンテストの作品展もあるギャラリー、筑後川の魚たちが泳ぐ水槽などもあります。

右上/くつろぎ感は長距離トラックの運転手さん達も太鼓判を押す。 右上/ミニ棚田の田植え。

●わかば会円形野外劇場跡

日本初の農民劇団「わかば会」

道の駅の西側、通称“西見台''に日本初の農民劇団「わかば会」の名残である野外円形劇場の後があります。大正デモクラシー華やかなりし頃、農村の青年たちは厳しい労働にあけくれ酒を飲むしか楽しみのないような日々をすごしていました。そういった古里の状況を憂えた浮羽郡古賀の開業医安本知之は青年たちの懇願もあり演劇を通して若者たちの友となり指導者となって私財を投じて援助し、1923年に「若葉会」を結成しました。 安本医師の病院の二階を舞台へと改造して菊池寛作「屋上の狂人」の初演を皮切りに、足掛け4年の間に武者小路実篤の「わしも知らない」など50以上の演目と20数回の上演を数え、1925年にはこの西身台にギリシャ式円形野外劇場築きました。しかし、この野外劇場出の上演を待たずして安本医師は病に倒れ38歳の生涯を閉じ、やがてわかば会も終幕を迎えました。野外円形劇場の跡が中央の新劇界に先駆けて、この山里の農村に芽生えた若者たちの息吹と、一人の青年医師の夢を伝えています。

●うきはの郷家宝資料館

広瀬淡窓ゆかりお宝も

道の駅の東側にある「うきはの郷家宝資料館」では・民家に伝わる貴重な書や掛け軸・絵・古文書などの文化財を展示しています。身分の区別なく学問を開いた広瀬淡窓の感宜園には、浮羽からも多くの人が遊学しました。それら江戸時代の学者たちや有馬藩主らを偲ぶお宝の数々を見ることができます。 時は元禄、筑後湾内するいわゆるガイド本『筑紫志』がすすめる土産の項に「生葉郡溝尻村に産する名薬紫金錠」とありました。この浮羽名物をつくったのは天地平兵衛さんです。


元禄旅行ガイド本
「筑紫志」にのった土産とは?

平兵衛は、幼ない頃から才覚をあらわし特に彫刻、蒔絵、表具、指物、竹木細工などは専門家をしのぐ技量で人々を驚かせました。江戸へ行く途中、旅籠の中で彫刻してその費用をまかなったといいます。若い頃、ひょっこり国を出て長崎に遊び、清国人の薬館に雇われ、南京大乙山桃源洞王摎子百一選の名を習得して帰り、紫禁錠の製剤を始め、たちまちその霊薬の名が広まりました。将軍家の御息女の病にも効果が現われ、おかげで浅草に薬屋を開くことも許され家運が栄えたといいます。

平兵衛のスパイ大作戦

ある時、久留米藩と佐賀藩とが猛烈な土地争いをしました。困ったことには証拠の地図「筑後川滌巻物」は佐賀藩の蔵の中にありました。平兵衛は表具師に化けて佐賀藩にいり込み、巧みにその地図を偽物とすりかえてしまったのです。久留米の殿様は涙を流さんばかりに喜ばれ、自慢の「紫金錠」が筑後一円に入薬御免となりましたとさ。

左上/劇場を作る村人たち。4000人全村民が収容できたという。 左下/家宝資料館 上/のんきな性格と世間離れした才能で人々に愛された平兵衛さんの
お墓が今も溝尻にある。
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