浮羽郡は今でこそ、穀倉浮羽といわれますが、340年前は北に筑後川がありながら水位が低く利用することができず、水田といえば限られた低湿地だけで平野の大部分はやぶ林におおわれ、その間を開墾してわずかな畑作を王とした農業が営まれているに過ぎませんでした。
目の前の筑後川の水を眺めるばかりだった340年前
とくに生葉郡包末村(今の吉井町包末区)から西にある江南(吉井町)、船越、水分、柴刈(田主丸町)の地域はすぐ北側を流れる筑後川の水を眺めてどうにかしてこの水を利用できないものだろうかと思うばかりで、農民の生活は実に苦しく、先祖から受け継いだ土地を泣く泣くく見捨て、ほかの土地に移り住む者さえありました当の古文書に亡所とあるのはこの夜逃げのことをいったものです。
5人の圧屋の 想像を絶する思いつき
この頃、生葉郡に夏梅村庄屋栗林欠兵衛、清宗村庄屋本松平右衛門、高田村庄屋山下助左衛門、今竹村庄屋重富平左衛門、菅村庄屋猪山作之丞という5人の庄屋は、このひどい農民の有様に心を痛め、度々集まって筑後川の水を何とかしてこの平地に引くことはできないかと話し含いました。結果はここから10kmばかり上流の長瀬(浮羽町)の入江の筑後川に堰をつくり、水門を設けて溝を掘り、落差を利用して水を引いてくれば、畑を水田にすることができ、水の不足もなくなり、久留米有馬藩の収入も増えるだろうということでした。 当時としては普通の人が及びもつかなかんぶんい思いつきでした。寛文3年(1663)の夏は暑さが厳しく日照り続きで作物が日焼けしたので、5人の庄屋は一層心配して早く水を引く工事をしなければならぬと強く思いました。
その年の秋に郡奉行高村権内が高田村庄屋の家に泊まりました。5人の庄屋はこの時とばかりうちそろって奉行の前に出て、今、目の前に苦しんでいる農民の有様を訴え、かねての水を引く計画を力強く説明し、ぜひとも藩のお許しが出るように熱心に願い出ました。この訴えを聞いた郡奉行はそれはよい思いつきであるが、その仕事はまことに大変なことである。しかしそれが成功すれば藩の収入も豊かになることであるから藩のゆるしがでるかもしれない。そのためには実際の土地をどのようにするか、くわしく調べて、設計書や見積書をつくって願いでるように」と励ましました。
測量につぐ測量
郡奉行に励まされた5人の庄屋は、たとえどんな困難にぶつかっても命がけでこの計画をきっと成功させようとお互いに誓い、その気持ちを紙に書いて血判までおして、決心のほどをあらわしました。いよいよ5人の庄屋は実地の測量をはじめました。水を通す溝の場所、長さ、幅、深さ、そのためにつぶれる土地の広さ、工事をする人の数などくわしい見積書、水路の図面をつくりあげるため、昼夜をわかたぬ努力を続けました。水の取り入れ口の浮羽町長瀬に行くには10qの道を歩いて往復しなければいけません。測量機械や計算機などもなく、もちろん車もない時代です。その時つくられた願い書「大石長野水道仕建進溝立願書」には「これらの工事に費やす費用は私共5人の庄屋が全部受け持ち、決してお上(久留米藩)にはご迷惑をかけませぬ」ということも書かれていました。
水の欲しさにかわりはなく
「計画書を作りLげ、田代大庄雇に頼んで願い書を出そうとしたことを聞いた近所の金本村、末石村、稲崎村・富光村・安枝付、島村、竹重村の5入の庄屋が我々もぜひこの計画に加えてもらいたいと申し出てきました。五庄雇は「私達は死を覚悟してやっているのであるから、他の人まで迷惑をかけるようなことはできない」ときっぱり断りました。しかしこれらの村でも水の欲しさはかわりないので、五庄屋の村だけに水を引くことは勝手が良すぎると、のちには怒りだして藩に願いでることをとめようとさえしました。そこで田代大庄屋(生葉郡西組と東の組の石井:六三郎大庄屋が仲裁に入り、なだめ、さとして話をまとめました。その時竹野郡(田主丸町)千代久村の庄屋も加わって13の村11人の庄屋で藩に願い出ることになりました。
11人の覚悟
寛文3年9月24日、水道工事請願書に名をつらね、高村郡奉行の手をへて久留米の有馬藩の役所に頼い出ました。藩主は四代目の頼利氏で当時12歳の幼い殿様でしたようやく願い書を出してやれやれと思っていたところ、他の村の庄屋がそろって反対を言い出したのです。その理由はもし大石村から溝を掘って筑後川の水を流しこんだら、普通の時はよいがひとたび洪水になったら溝の通る自分達の村の田や畑は大水になって大変な損害を受けるおそれがあるというものでした。これに対して「設計通り工事を進めれば決して損害を及ぼさないと信ずる。万一損害を与えた際は、必ず我々が責任をとりどんな重いい罰でも受けます」と工事を願い出た11人の庄屋が決意を述べ、高村奉行も反対する庄屋に強くいいきかせたので反対していた庄屋たちもどうすることもできずおさまりました。藩は、今まで経験のない大工事なのでいくども五庄屋を呼び出し、その度ごとに庄屋たちは早く工事の実行をしてもらうよう訴え続けました。ようやく藩の意見も工事を行うということになり土水工事にくわしい普請奉行、丹波頼母重次を実地の調査に当たらせました。当時は夜間にいくつもの提灯を竹にさげ、高低を計ったと言われます。調査が終わりに重次は、「こんな大事業はとても庄屋などの手でやりとおせるものではない。是非藩の工事にしてください」と意見をもうし述べました。
寛文3年(1663)12月、11人の庄屋の念願であった水道工事は藩の仕事として許しが出ることになりました。郡奉行は11人の庄屋を呼んで「設計書どおり水路ができあがり、万一水が流れてこない場合はお前達の責任はまぬがれない。もし成功しない時はお上に迷惑をかけた罪は軽くない。よってはりつけの刑にされるであろうが、それでも不服はあるまいな」と念をおされました。この時はじめからこの計画を言い出した5人の庄屋が進み出て「不幸にして不成功に終わりすべてが無駄な骨折りとなった時は、どうぞ私たちをきびしく罰して皆のみせしめにしてください。よろこんでその刑を受けて、藩や世の人々におわびいたします」と覚悟のほどを申し述べました。
逆流、落胆髪を切って祈った妻たち
いよいよ工事が始まることになりました。長野村の入り口に十の字型のはりつけの柱が立てられました。寛文4年1月11日工事が始められ、はりつけ台を見た人々は庄屋どんを殺すな」とばかり、水を通す溝を掘り、掘った上を運び厳しい寒さの中で一生懸命に働きました。庄屋の気苦労も大変なものでお嫁さんたちは髪を切り、久留米の高良大社に捧げて祈ったということです。そして5人の庄屋の村では老人、女、子供まで出て、自分達でできる仕事を手伝いました。大石村(浮羽町)の長瀬から溝を掘って長野まで来たので水を流し込んでみたところが、少し下流の糸丸村の近くまで来た水は再び非常な勢いで逆流し始めたので人々は大変驚きました。5人の庄雇は色を失いその落胆ぶりは見る目も気の毒なほどだったそうです。その晩からこっそり志疲(杷木町)の金比羅様にお参りして、神様に助けを乞うたということです。また溝を掘っていくうちに大きな岩に当たり、すきまからたくさんの水を吸い込むというので、苦心の末、岩の下を掘って岩を沈め溝を通すこともありました。人の手を使い、わずかに牛や馬の力を借りて運搬し土で固めて土堤を作り、堰や水門をつくっていきました。
ついに筑後川の水が流れ込む
こうして多くの人々の懸命の働きによって、工事ははかどり予定より早く寛文4年(1664)3月に完成しました。いよいよ水を流してみると設計どおり筑後川の水はとうとうとして新しい溝を流れはじめました。人々は歓声をあげ、手をとり肩を抱き合ってよろこびました。11人の庄屋の喜びはいかばかりだったでしょう。たえず人々の心をおどかしてきた工事場のはりつけ台柱は大勢の人々の前で焼かれました。工事をはじめて完成まで60日あまり。人夫はおよそ延4万人、この工事によって75町歩(約75ha)の田んぼに水がひかれることになりました。今まで畑が主だったこの地方に筑後川の水がひけるかは久しい間の疑問でした。しかしこの工事で証明され、水田をひろげようとする気運が高まり、浮羽地方は水に恵まれた豊かな穀倉地帯となったのです。
筑後川の夕映え。とうとうと流れる水を前に、どうすることもできなかった時代があった。
●長野堰と角間天秤
天秤が分かつ新川の流れ
昭和28年の大水害で水路や水門はほとんど壊れ、近代の技術を駆使した復旧事が行われました。長野の水門も隈の上川の下をくぐるサイフォン水路となり様子はかわってしまいましたが、340年あまり前の工事の偉大さが証明されました。新川の水は、ずっと上流の大石村(浮羽町)の水門から取り人れられた筑後川の水です。水門から西へ約3kmの長野橋から、筑後川に流れだす隈の上川の堰を下に見ることができます。この合流点の西側に旧長野水門がありました。そこから筑後川の南の堤防下の水路にそって約800m西へ下った角間には、北新川と南新川の分岐点で水をはかりわけるため、川底に大きな石がおかれています。これをいつしか角間天秤というようになりました。それぞれの流れが今でも網の目のように分かれながら、田畑を潤しています。
角間天秤から南北に分かれ、町に名gれこむ新川。稲穂が色づく頃、堰を落として水を引く干川の時には、魚獲り名人が投げ網の腕を振るう。
●筑後川サイクリングロード
耳納連山、水鳥、野の花吉井から久留米へと続く水辺サイクリングロード
悠々と流れる筑後川に沿って、水面近くに緩やかに続く筑後川サイクリングロード」。昭和54年に完成した吉井町桜井から久留米の東櫛原町をつなぐこの水辺の自転車道は、長さ27.45qと福岡県で最長を誇ります。春を彩る河川敷一面の菜の花、野菊や野アザミなどの野の花や、美しい立ち姿のコサギ、冬に飛来するヒドリガモやカイツブリの群れなど、耳納連山を背景に見飽きることのない四季折々の風景があります。
ゆっくりとペダルをこいで歴史をたどる
サイクリングロードの起点五庄屋を祀った長野水神社か引ら満々と水をたたえた長野水門の風景を見渡すと、先人が力を結集して水を平野部へと導いた様に思いを馳せることができます。近くには、地元の古老が「炭積」と呼ぶ港の跡もあり、かつて耳納山中で焼いた炭を運搬船に積み込み、竹をいかだに組んで久留米や大川へと運び出していました。昭和28年の大洪水と夜明ダムによって産業の動脈としての筑後川の賑わいは姿を消し、河川敷には静かな時が流れます。
堤防道路から一段おりて、下流からだんだんとうつろい変わっていく筑後川の夕映えを、一段と楽しむことができる散歩道です。
4月、筑後川河川敷は一面菜の花色に染まる。 養蜂家が種をまいたという説もある。
●長野水神社春祭り
桜と菜の花の名所長野水神社の春祭り
水神社は美津波能売命を祭神とし、大石、長野水道開鑿功労者五庄屋を祀っています。隈の上川にのぞむ境内は、4月8日の春祭り頃は菜の花と桜が咲き誇ります。
午前10時30分の神事の後、少女4人による浦安の舞があり、千年小学校、江南小学校の生徒達が五庄屋にちなんだ校歌を歌い、先人の遺業を称えます。歴史と花、そし夏はホタルの名所として、多くの参拝客が訪れます。
浦安の舞、祖手は桜満開の花吹雪
●素蓋鳴神社(すさのおじんじゃ)
夏をはこぶあばれみこしと祇園様
祭神は素蓋鳴命で、祇園社と呼び親しまれている素蓋鳴神社は、寛延元年(1748)の吉井町の大火で焼失し、宝暦13年に今の地に移りました。7月21、22日に行われる夏祭り祇園山笠では、博多の人形師がつくる高さ10mあまりの豪華絢欄な飾り山がその年の当番町に据えられ、中から天領日田の祇園唯子が伝わったという、いなせな旦那衆の三味線、笛、太鼓の祇園唯子が響きます。
祭神にふさわしく異性がいい暴れみこしは、その昔巡査をおいかけまわして留置場にはいったものの 一晩中気勢を上げるので早々に無罪釈放されたと言う逸話も残っている。今は、元気いっぱいの子供みこしとなった。