吉井の旧家、川口屋の別荘として耳納山麓の地に建てられ、風雅人たちの清談の場でしたが、戦後は人の手に渡り荒れ果てていたのを現在所有する弥永氏が二代に渡り手を入れ、わらべ地蔵を建立し、そのなんともいえない愛らしい表情が話題となりました。
108のわらべ地蔵と
300本の梅の庭園
谷川が流れる庭の中にはI08体のわらべ也蔵の他にお不動様、修羅、がま、河童など百を超す石像が置かれ、2月に咲き誇る300本の梅の花、秋の紅葉とともに心なごむ山辺の名所となっています。
左/300本の白梅、紅梅が香る庭。
上/阿弥陀如来が念佛行者の来迎の時」、従えている二十五菩薩のひとつが
地蔵菩薩、お地蔵様は庶民の救世主である。
●曽根の櫨並木
櫨の実は「銀」の色
蝋燭の灯で、財産の「吉井銀」
櫨は難破した中国船が鹿鵬の櫻島に上陸した際に、その種と櫨の実から蝋を絞る技術をお礼に伝えたとされています。筑後木蝋は日本で生産高、品質ともに第一位にありました。吉井町は櫨の国であった筑後の名声を担い、その中心地でした。大蔵永常著書『農家益』に「櫨は蝋を絞り鬢付け蝋燭に製し、夜を以て日につぐ大益ありて、日夜なくては叶わざる益物たり。(中略)且四季を撰ばず貴賎を論ぜず、鬢付けをつけざる俗人なく、蝋燭を燈さざる家なし、是皆櫨を以て成す所なれば、常時櫨の大用たることを知るべし」と、櫨が暮らしになくてはならないものであることと当時の盛況のほどを伝えています。吉井町でも、明治の中頃には15軒が蝋屋を営み、職人が竹にさした芯に手で蝋を塗り付ける「蝋燭かけ」の風景があちらこちらで見られたといいます。櫨や蝋で蓄積された富は「吉井銀」となりました。
無用御免の伐採をのがれて
明治時代は文明開化とともにランプが普及し、蝋燭、菜種油の値段を低迷させ、櫨の木は枯れ朽ち ていく運命をたどりました。櫨紅葉の頃に風のうなる裸の梢に長い梯子を立て掛けて男たちが櫨のみをとる姿も今はなく、伐採を逃れた曽根の堤防櫨並木が、11月に真紅に燃えます。
●福益城(ふくますじょう)と袋田不動尊
地名に残る星野氏の興亡
延寿寺の裏山から続く福益城跡は、山城としては大規模なもので、本丸、二の丸、三の丸、出丸を備え、妙見山城とともに中世の武将星野氏の筑後における主城でした。星野氏は秋月氏の幕下大名であり、大友氏の攻撃を受けましたが城を防ぎきり、その真下にある袋田はしばしば城攻防書戦の修羅場となりました。 流された血潮もすさまじく、血溜という地名も残っています。戦死者を悼む思いと不動信仰とあいまって不動尊が祀られ、修験道の滝行場としても知られ、春の大祭は多くの人が訪れます。 延寿寺には、神内、権堂屋敷、鍛冶屋敷、曲金屋敷などの地名が多〜残り、当時の城下町をしのばせます。福益城廃城とともに、城下町はこの地より現在の吉井町、と移りました。
●竈門神社(かまどじんじゃ)
吉井町屈指の古社
この地は古墳時代からの遺跡の多いところで、天智天皇が朝倉宮木の丸殿在届の折、この地を望んで橘の花が咲いたように見えたので、橘村と名付けたと伝えられています。天武帝白鳳元年(673)、筑前宝満山竈門神社の祭神玉依姫命をここに勧請したものと伝えられる吉井町屈指の古社です。貴重な農耕絵馬をはじめ隕石といわれる黒石が伝えられています。
左/櫨が終わった延寿寺川に沿った曽根(曽根とは長い堤防道のこと)は、大化改新(645)に行われた条里制のロ分田への配水のためにつくられ、耳納北麓で最大。星野道として唯一の大切な山越えの道でもあった。上/血潮のような火炎をせおった不動尊。
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