有馬藩のもと、吉井町は上郡の政治経済の中心地となりました。寛文4年(1664)、五圧屋による疏水の完成によって浮羽地方が穀倉地帯となると、物はさらに吉井町へと集まり、「水清く市中を環疏し、商家軒を連ねる」といわれるほどに発展していきました。
幕藩体制下にあっては士・農・工・商の区別によって口陰の身だった商人・地主も、時代とともに農産物を酒、錬、油、砂糖などへと商品化し、その販売によって財を蓄え一資本を競って土地に投下していきました。こうして明治の初期には多くの新興地主が誕生し、藩政時代は藩に上納していた年貢米を、藩主に代わって余米(上納米)として小作人から受け取り、政府に対しては租税を金納すればよかったので土地は実に有利な投資物件となっていました。
吉井町に多く見られる「居蔵屋」は分限者と呼ばれるかれら地主の居城です。櫨蝋や余米、数々の加工品で蓄積された富は「吉井銀」とよばれ、やがて地方金融面に威力をふるうことになります。明治15年(1882)、東京に日本銀行が設立された二ヶ月後には、早くも吉井銀行が誕生していました。
白壁が疏水に映り込む。「天國(あまくに)」という酒をつくっていた明治17年創業のこの弥吉酒場をはじめ、明治時代には酒蔵が並ぶ酒造業者が7軒あり、酒処吉井の名を馳せていた。
分限者たちの富を誇示する「居蔵屋」は、住居と蔵のつくりを併せ持ち、外壁は生子(海鼠)壁、屋根は本瓦を使い、棟々は定紋入りの鬼瓦を上げ、堂々とした風格です。間口の広い玄関を供え、上がり框が土間の奥につくられ、梁や天井板は材質の優美さと豪華さを競いました。中には家財を質に預けてまで建てる者もあらわれ「三年家主」と揶揄されていたこともあったといいます。
吉井に於ける居蔵家の始めは天保11年(1840)頃であろうと推定され、上町の龍田本家の家屋棟札に祖年号が記録されています。家は藁葺きや茅葺が普通で、有馬藩は庶民に瓦葺を禁じていました。龍田家は長崎貿易で巨万の富を得、藩に度々献金して士分格となり、江戸城の修築に本瓦五万枚を献上してその功績を認められ、自家の建築に本が藁葺きを許されたといいます。
吉井町は寛延元年(1748)、宝暦5年(1755)、明治2年(1869)と三度の大火にみまわれました。その経験から家を土蔵作りにして防火につとめ、巨瀬川と並行する3つの災除川、南新川、美津留川が相互につながるような水路を作り、防火用水を確保することも忘れませんでした。/p>
鏡田屋敷は幕末から明治初期に郡役所の官舎として建てられた、吉井町に現存している唯一の屋敷型の白壁建造物です。敷地の北側には才の木溝が流れ、主屋は入母屋造り桟瓦葺平入りで、正面に小さな破風をのぞかせ。水路を引き込んだ池を持つ庭園が広がっています。主屋小屋組みは、居室上部が梁の間が 三間半の二十梁という古めかしい構造で、正面部分は文久3年(1863)の建築、背面部分は明治26年(1893)建築です。
居蔵の館の主屋入母屋の妻入り建物で、腰部分以外は漆喰塗りのいわゆる白壁土蔵造りで、明治末期に立てられました。二階には日込みの鉄扉を備えた対の窓があり、大火から家を守るために以下に丈夫なつくりをしているかがわかります。せいろう行で財を成した大地主一家が移り住んだ館で、広い続部屋の座敷、神棚が置かれた吹き抜けなど見ごたえのある空間が広がっています。
「鏡田屋敷・居蔵の間」開館時間 9時〜16時30分休館日 月曜日(祝日の場合は翌日)、
左/210号線沿いに残る白壁の町並み
上/鏡田屋敷
下/居蔵の館
ナマコ壁が残る路地裏
「土蔵」は白壁づくりの吉井町の観光情報拠点です。このもと酒蔵の建物は厚く塗られた壁土や、シックの白壁に守られ、中の空気は温度が一定でひんやりとしています。金子文夫さんの全国の河童コレクションとともに、文学通り白壁通りの風景だった明治・大正・昭和初期の吉井町の写真が飾られています。
開館時間 9時〜17時 休館日 月曜日 食事処・土産・レンタサイクルあり 吉井町観光協会 09437-6-3980
観光会館となった酒蔵