筑後軌道が走る大正時代の吉井町。明治36年、馬鉄会社と称して吉井街に設立され、最初は吉井、田主丸間を馬に15人のりの客車をひかせた。やがて石油発動機に変わり、明治41年には久留米までつなぎ、大正3年には蒸気機関車となり、翌年、日田の町まで全通した。この筑後軌道によって巨瀬川の船便は完全に絶えたと言われる。昭和3年に国鉄久大線が久留米から吉井までを開通すると、筑後軌道は30年渡る役割を終え、レールが取り除かれた県道はアスファルト舗装された。
清流と白壁の町、吉井の名は「きれいな水のわき出るところ」に由来します。先人たちが作り上げた疏水は3度の大火から町を守り、町並みを今に残してくれました。
白壁土蔵と清流の街道
人と物であふれた宿場町
天正(約400年前)の頃、大友氏が福益城に攻め入り延壽寺での大激戦の末に城は落城し、耳納山麓にあった中世以来の豪族星野氏は滅亡しました。城下町は平地の寒村に過ぎなかった現在の吉井に次第に移り、幾多もの産業が興って町の体裁を整えてきます。やがて江戸時代にいると有馬般21万石の城下町久留米と、天領日田を結ぶ豊後街道の中央に位置するところから、人があふれ地方の産物が集まる宿場町として大いに栄えました。
今に残る白壁土蔵づくりの家々は、吉井銀と称された金融活動で資力を蓄えた商人たちが作りあげたものです。時代の流れで店舗の改造は成されましたが、国道210号線の旧豊後街道筋に百数十軒の見事な白壁の町並みを清流とともに残しています。平成8年には「重要伝統的建造物群保存地区」に選定され、暮らしとともにある古き町並みの保存に取り組んできました。
現在は210号線となり、車が往来する。表の顔は時代とともに変わっても屋根並は変わっていない。