日岡古墳と月岡古墳


3世紀の終わりから7世紀にかけ、上や石を盛り上げて大きなお墓をつくった時代を古墳時代といいます。この時代には近畿地方を中心として成立した大和朝廷の支配が全国に広がり、国としてのまとまりが生まれてきた時代です。東の「日」、西の「月」。若宮八幡宮境内の中には九州随一の装飾古墳があります。  

間近に見る
全国でも稀な装飾古墳群

日岡古墳は、6世紀前半の古墳時代後期につくられた全長74mの前方後円墳で、九州の彩色壁画古墳の登場はこの日岡古墳が最初です。石室は横穴式石室で・遺体を埋葬する部屋にトンネル状の通路がつき、何度でも遺体を埋葬することができる構造になっています。長さ3.8m、幅2m、高さ2m(現長)程の部屋全体に、赤・白・緑・青色の顔料をあでやかに使い分けながら、力強く様々な紋様が描かれています。奥壁には、太陽を思わせる丸をいくつも重ねた6つの同心円文、左には小さな馬(または四つ足獣)と魚、右の壁には弧状に描かれた船の絵があります三角文、蕨手文もあり、中には靫(弓矢を人れる道具)太刀や盾もみられます。また、魚をモチーフにした古墳は全国的にも珍しいといわれています。 石室の床の大きな石は天井の石が落ち込んだもので、現在は上からのぞき込むかたちで石室を見ることができます。死者を祀る暗闇を彩る鮮やかな装飾壁画を間近に見つめたままじっと動かなくなる考古学ファンもいるとか。

日岡古墳の壁画。太陽を思わせる大型の同心円文が、赤、緑、白の3色で
一面に描かれている。いまからおよそ1450年前の「絵」を目の前で見ることができる。


大和政権に送り込まれた
三代の先人たち 冑に輝く「金の小魚」

月岡古墳は古墳時代中期(5世紀半ば、およそ1550年前)につくられた全長80mの前方後円墳です。1805年若宮八幡宮の宮司安元大炊氏によって発見され、詳細な記録が残されています。遺体を埋葬する部屋は竪穴式石室で、一度遺体を収容すると完全に密封する構造で、石室に阿蘇凝灰岩製の長持形の石の棺(長持形石棺)が安置されており、どちらも九州の古墳では珍しいかたちですが、今では全て壊れ石棺のみが現地に残されています。この石棺からは鏡・下・剣・刀・やじり、八個の冑・甲、すね当て・弓矢を入れる道具(胡録)`金メッキが施された帯金具などといったおびただしい出上品(埋葬品)が発見されました。これらは国の重要文化財に指定されています。歴史民俗資料館では、数尾の金の小魚を彫り込んだ蒙華な眉庇付冑などを間近に見ることができます。 塚堂古墳もまた古墳時代中期につくられた前方後円墳で前方部、後円部のどちらにも横穴式石室がつくられ、冑、刀、矛などの副葬品の他、古墳のまわりには二重に掘が巡り馬や人、盾などのかたちをした埴輪が出土しています。

筑紫平野の豪族を束ねる
軍事の要

これらの三墓の古墳は「日本書紀』の中に朝鮮半島で名を残した的臣一族のものであろうといわれています。古代、生葉山と呼ばれていた水縄山麓で、朝鮮半島をにらみながら筑紫平野の豪族たちを束ねる名を受けて大和政権に送り込まれ、この地に眠る三代の埋葬者達。九州には珍らしい胡録金具などの副葬品の数々は、半島での功績を讃えた証ともいわれています。

●屋形古墳群

ゴンドラをこぐ人
太陽へと導く鳥

吉井町の南に位置する耳納山麓一帯は古墳時代後期に1000基にのぼる古墳が作られた地域でしたが、果樹園の開墾などで大多数は破壊されてしまいました。残されている装飾を持つ珍敷塚、鳥船塚、原、古畑の4基を屋形古墳群と総称しています。 珍敷塚の装飾は、舟と鳥が組み合わさった図柄です。ゴンドラ風の舟の舳先に一羽の烏がとまり、擢を持つ人が船を操る姿が見えます。中央には弓矢が入った靫(ゆき)が並び、弓もしくは盾を持った人物と、古代中国で月を表す図文であるといわれるヒキガエルが2匹描かれています。太陽が輝く陽の世界から月の支配する陰の世界へ、鳥が導く舟で現世から来世へ旅立とうとする姿が描かれているといわれています。

●歴史民俗資料館

装飾古墳の出土品の宝庫

古民具や農機具などの民俗資料の展示のほか、重要文化財クラスの占墳出L品などを間近に見ることができ、地元の郷七史会のガイドによる古墳案内を受け付けています。

開館時間         9時30分〜17時(入館は/6時30分まで) 休館日          月曜日12月29日から1月3日 入館料          無料(古墳見学は要予約)              吉井町教育委員会TELO9437-5-3343

昔、道路工事中に、この妙な絵が描かれた古墳を壊してしまい、たたりが あったのでそのまま石は埋められ、地名を珍敷塚とよばれるだけで±地の 人からも忘れられていた古墳。戦後土取り中に、再発見された。

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