田主丸には、人と水辺のかかわりを取り戻すために地元住民が力を合わせた活動があります。 くじらの森はかつて倉富家の屋敷森でした。佐賀の龍造寺李家を祖とする島守胤知(つしまのかみたねとも)が天文14年(1545)に耳納山脈北麓の森部に移り住んだのが、最初の田主丸との出会いでした。後に徳重坂井両村の庄屋となり、森に現存する湧水の池と溝は当時、集落と館を取り囲んでいた環濠の名残りであるといわれています。
人々の手で泳ぎだしたくじらの森
ホタルカモたくさんいたけどなあ
このくじらの森の横を流れる三津留川の河川改修が計画された平成3年のある日、九州農政局が地元の人々を集め意向調査を行いました。この時、地元の人々の「前はこの川にもホタルがたくさんいたけどなあ」という話しから「くじらの森にはお濠があるから倉富さん(神奈川県在住)にお濠を借りて、あそこをホタルが飛び交う水辺に変えようじゃないか」と話しが盛り上がり、まちづくりグループ「保太流(ほたる)の会」が結成されました。会の熱意にうたれた倉富氏は、この屋敷跡を町に寄贈することを決め、地元の小学校をはじめ町をあげての本格的な整備が始まりました。
森の中央部につくられた石組みの円形ステージでは、筑前琵琶やジャズなどユニークな野外コンサートも行われ、緑のくじらは人々の心のふるさととして静かに成長を続けています。
森がくじらの形に似ていたことから、子どもたちは昔から親しみをこめて
「くじらの森」と呼んでいた。その名前には「森に寄せる人々の夢をのせて
大海へ船出する」意味もこめられている。
森が鯨のかちゃちに煮ていることから、子供たちは昔から親しみを込めて「くじらの森」と呼んでいた。その名前には「森に寄せる人々の夢をのせて大海へ船出する」意味もこめられている。
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