●植木の町田主丸

 田主丸町には、木々が一列に並んだ「植木の畑」が広がっています。成長を待つ挿し木や接ぎ木が見事に列をなし、まんまるい豆柘畑はさながらキャベツ畑のよう。鶴や亀のかたちに刈り込まれているのはガーデニングで人気のトピアリーです。根っこを菰で捲かれゆさゆさと枝葉を揺らしながらトラックの荷台にのせられ移動していく大木も、日本三大植木の産地のひとつ田主丸町ならではの風景です。 


技の追求と伝承あり 田主丸が植木の町となったわけ

その名が苗木栽培に由来する殖木には「植木苗木発祥の地」の石碑があり、「イカニモ幕府ノ政策ニアエグ藩政卜天災卜人災ニサイナマレル農民ガ生キンガ為二撰ンダ副業生産ノ活路デモアツタ」と刻まれています。植木が始まったとされる1700年前後は、時まさに元禄時代。経済をゆるがすような貨幣経済や商品流通が盛んになって一大インフレがおこる中、田主丸には生産物を商品化する産業が全国に先駆けて芽生えました。

田主丸から伝わった櫨栽培の技術

 「泰平の時代、万民樵蘇(生業)をたのしむ。今この時に相合うこと、甚だしき幸いならずや。予、素より平民生まれ、蚤年(若年)の頃より農事のいとまには果樹を植て是を愛翫し心を種植の業に潜ること、ここに年あり。然るに近世、他の国(中国)より黄櫨の種子わたり、そのはじめ薩摩かたへ預けるがこれ人世有用の良木なりと近き国々に伝え植ゆることすくなからず」。竹野郡亀王村(現在の田主丸町大字秋成)の大庄屋であった竹下武兵衛周直は、『農民綿の袋』の冒頭部分で、子供の頃から農業の合間にに果物の種を育てては楽しんでいたこと、櫨はとても役に立つ木で、その栽培が九州に広がっていったことなどを記しています。

 一揆や享保の大飢饉を経験してきた武兵衛は、享保15年(1730)ごろから櫨の栽培を始め、この書の中でその栽培の記録と方法を示し、実のよしあしと種実の選び方、苗木の育て方、よい苗木の見分け方を30章にわたって詳しく記し「草木数多有といへども、世間財用に便有ることいまだ此木より感なるはなし」と櫨栽培が農家に多大なる利益をもたらすと奨励しました。やがて櫨栽培は筑後一円に拡大していくこととなります。

左/植木苗木発祥の碑。 上/田主丸植木農業協同組合の植木市。仲買人であふれる大物せりの風景。 次ページ/白い雪の中に整然と並ぶ真紅の珊瑚紅葉。

之が秘訣は親は子に、子は孫に

さらに江戸時代末期に先人達の才能が花開きました。牡丹栽培の石井半蔵に苗木の名人といわれた今村喜左兵衛、その弟喜助は「盆栽の達人」として誉れ高く、喜左兵衛の息子熊作は美濃同大垣(岐阜県大垣市)から九紋龍の桑苗を持ち帰り、苦心惨憺の末にその接木の方法をあみだしました。当時、桑の実一升が九両、米一俵が桑の苗四本というとてつもない値段だったといいます。

 これらの先人の偉業は今も植木業にたずさわる人々へ受け継がれています。その立て役者として、鍛冶師二宮孫一が打ち出す切れ味、反りともに接木に最適の一刀の「田主丸型ナイフ」や「ビニール接木法」の考案などがありました。「之が秘訣は親は子に、子は孫に漸次相伝えられ研究実験を重ねること大なり。之当地の苗木の他に比肩すべきものなき一因となるべし」現在では植木の種類も800種を数え、親子代々伝えられる技術と、何百年と続く町の人々と苗木との対話によって、田主丸は全国に誇る植木苗木の町となったのです。

●田主丸の緑化活動

進め、緑の王国づくり

 そんな田主丸町では「緑の王国づくり」と称して、生け垣や花壇づくりを補助金などで応援しています。その中に、「河童像を設置する」という項目がこっそり加えられているのも、田主丸ならでは。  また平成4年度から、無計画な放牧や万里の長城を築く際に煉瓦を焼くために木が伐採され人為約に砂漠となった中国内蒙古自治区クプチ砂漠でのポプラ苗木の植樹活動を毎年行っており、参加した人たちを中心に「緑の応援団」が結成され、町内でも植林活動が広がっています。

トピアリの刈り込み風景。そのモチーフは実にさまざま。
灼熱の砂漠での植樹風景。


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