久留米つつじ


久粥米つつじは花の色が豊富で、木全体に花をびっしり と咲かせる美しいつつじです。多くの人々に愛され、世界 各地で栽培されています。

江戸の園芸ブームが生んだ
世界の久留米つつじ

戦乱の世が治まり、平和な生活が続く江戸時代、園芸植 物を育てることが大流行しました。大名屋敷や町人達の住 宅建設が進んで植木への関心が高まったのもその頃で、庭 のない長屋の人々は鉢植えにしていろんな花を楽し み、近郊の名所へお花児などの物見遊山へでかけることも 盛んになりました。三代将軍家光は「花狂い」で知られ、 全国各地の大名はこぞって領地内の珍木奇木を献ヒしてい たといわれています。薩摩を原産とする一斉に咲き請る 「霧鳥つつじ」も例外にあらず、江戸で大ブームとなり 各地に行き渡りましたが、品種改良はほとんど行われ ないままでした。久留米藩主の有馬頼咸が殖産政策とし て櫨、桐、桑の栽培を奨励していた頃、その霧島を飛躍的 に改良し、久留米つつじの生みの親といわれているのが久 留米藩の式士坂本元蔵です。

一人の武士のあくなき情熱

元蔵は久留米藩の九代藩主有馬頼徳に仕える馬廻り役 (身のまわリの世話をする人)三百石取りの武士でした。元 蔵は何事にも熱中する人であり努力家でした。居合術の使 い手ですぐれた馬術家でもありました。天保9年(1838)、 元蔵は殿様の馬術指南役になりましたが、熱心さのあまり 厳しく指導したため側近達に嫌われ、職を追われることに なりました。無役になった元蔵は毎日何もすることがなく ぽんやリ過ごしていましたが、見カ'ねた友達のすすめで久 留米城下で流行していたつつじの盆栽づくりを始めた元蔵 は生き返ったように熱中しだしました。

元蔵は眼の色を変えて、毎日、毎日、近<の山を歩き 回っては苗木を探しました。欲しい苗があるとどんな断崖 絶壁でもよじ登リ手に入れなければ気がすみません。転落 もしましたが、元蔵の山歩きは続き、新しい苗木を手に入 れては挿し木で殖やし、庭は一面つつじとなりました。し かしどんなに株を殖やしても天然自生には限りがあり、品 種はわずか七、八種類。「これからは実生(種で品種を増や すこと)しかない」そう考えた元蔵は研究を始めます。し かしつつじの種子は目で見てもよくわからないほど小粒 で、人々はとうてい不可能と考えていました。元蔵は毎 日、毎日、高良山や梅林寺にでかけては、つつじの種を採 取し苗床にまき続けましたが芽はでません。薩摩にもでか け、あらゆる方法を試しましたが、何年もの月日が過ぎ 「あれはきちがいじゃけん」とあざ笑うものもでてきまし た。あきらめかけた元蔵でしたが「いや、もう一度だけ やってみよう」と思いなおし、種を手に庭におりた瞬問、 強い風が吹き種は全部吹き飛ばされてしまいました。

苔の上の小さな芽生え

さすがの元蔵も力をおとし、二度と種をまこうとはせ ず、つつじの世話もしなくなリました。それから一月ほど 過ぎたある日、元蔵はふと庭のすみに目をやりました。石 灯籠の下の苔の上に見慣れない若芽が頭を出しているので す。「何だろう」腰をおろして見つめていた元蔵の顔はた ちまち笑顔に変わり、思わず叫んでいました。「つつじだ、 つつじだ、つつじの芽だ」あの日、青苔の上に飛び散っ た小さいつつじの芽は苔の湿気に包まれ、育てられ、力強 く芽を出していたのでした。元蔵はこの苔まきの方法を借 しげもなく同好の人々へと伝えました。こうして、あっと いう問に百近い新しいつつじの品種が誕生したのです。  

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