漱石の道


明治の文豪夏目漱石は、旧制第五高等学校教授の時代に 5回ほど久留米に足を運んでいます。明治30年、親友菅 虎雄を訪ね、高良大杜から耳納連山を越え、筑後'平野に 咲く一面の菜の花を眼下に見下ろし、発心の桜を見物しまし た。この時の山越えが後の名作「草枕」生かされたとい われています。  

文豪漱石が歩いた
『草枕』の道

その時に漱石が詠んだ「高良山一句」と題して十の旬を
詠んでいます。

松をもて囲みし谷の桜かな   (発心公園) 菜の花の逢かに黄なり筑後川 (森林つつじ公園) 濃かに弥生の雲の流れけり  (発心城跡) 人に逢わず雨ふる山の花盛  (森林つつじ公園) 筑後路や丸い山吹く春の風  (森林つつじ公園)

「ここ迄決心をした時空があやしくなってきた、煮えきれ ない雲が頭の上にも垂れ懸かって居たと思ったが、いつの まにか、崩れだして、四方は只雲の海かと怪しまれる中か】 ら、しんしんと春の雨が降り出した。菜の花は疾くに通り 過して、いまは山と山の問を行くのだが、雨の糸が濃かで 殆ど霧を欺く位だから、隔たりはどれほどかわからぬ…」 「草枕』の一文に、筑後平野の情景が重なります。

漱石の歩いた山道である現在の自然歩道「耳納縦走コース」 と「発心城コース」の約14kmは「漱石の道」と名付けられ、 五句の句碑がおかれている。明治32年の1月、漱石は再び 訪れ、宇佐八幡宮から耶馬渓から日田へ出て筑後川を舟で 下り吉井で一泊しており、吉井より訪れた豊後中道の山辺道 と川辺道に分かれる追分で『追分という慮にて車夫共の親方 乗って行かん喃いふがあまり可笑時化れば... 親方と呼びかけられし毛布哉』と吟じた。伊能忠敬も通ったと いう今も地名が追分には、漱石の句碑が建立されている。

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