豊後街道の宿駅として栄えた草野町には、現在も在りし 日の賑わいをしのばせる多くの寺社があり、草野氏の栄枯 盛衰の歴史を今に伝えながら静かにたたずんでいます。
専念寺に向かい含っているのが須佐能衰神社で、建久8年(1197)草野永平の創建と言われています。代々草野城主の崇敬厚く、旧名草野祇園社といい、草野氏の減亡以後も町の氏神として祀られてきました。 祭神は素戔鳴尊で、現在の神殿は明治維新以後、老朽著しかったものを、明治14年(1881)に着工し、6年をかけて地元の分限者たちが私財を投じて再建したもので、本殿、拝殿、楼門はいずれも県指定文化財であり、特に彫刻を施した楼門は見事です。本殿の屋根は檜皮葺、棟に千木、鰹木を置いて変化をつけ、拝殿は唐破風、入母屋で神仏混合の権現造り、楼門は本瓦葺で鯱と透かし彫りの花狭問が 目を引きます。一階と上層の柱の位置が違い、屋根、腰組の比率と彫刻が美しい和様唐様一部天竺様の調和のとれた建築です。隔年7月下旬に行われる草野風流は、伝統的な町並みとともにうけ受け継がれています。町の人々は「ぎおんさん」と呼び親しみ、祭りを今に受け継いでいる。社殿は県指定有形文化財指定。
専念寺は天福元年(1233)の創建といわれ、開基は聖光上人の弟子の持願上人です。その後、草野氏最後の城主家清の時、僧清厳が再興したものです。本堂の内部は金色の柱を中軸に、丹塗りと金泥で彩色され、龍を一枚一枚描いた格天井や青赤緑と壮美をこらした壁画、鳳凰の欄間などは「九州の日光」と称される由縁です。本尊の「木造阿弥陀如来立像」は鎌倉期の傑作といわれ、極彩色の本堂の中に静かに輝いています。離れの茶室は南天の天井で名高く、小堀遠州の作ともいわれる前庭には、水蓮の池に浮く亀石、鶴石、つつじの築山の中の虎石など、見応えのある造園が広がっています。
専念寺の阿弥陀様には、ひとつの言い伝えがあります。昔、大雨が続いて山崩れや洪水で道がふさがり、久留米へ出ることもできず草野の人々は食べ物にもことかく有様でした。やがて雨がやみ村人が後かたづけのために寺に集まって、困ったものだと相談していると、見知らぬ商人が塩を満載した牛車を引いてやってきて「ご注文の播磨の塩をお受け取りください。」といいます。
誰も注文した覚えがないので訳を聞くと、「十日ほど前、旅姿のお坊さまが来られて、ちょっと遠いが筑後の草野村にある専念寺に塩を届けてくれ」と金を払っていかれたとのこと。皆は、これは仏のお陰と仏前に来て二度びっくり。本道に古いわらじが一足脱ぎ捨てられて、足跡が本道へと続いています。たどっていくとご本尊の下まで続いており、仏様の足に泥がついているのを見て、人々は皆座り込 んで思わず手をあわせました。それ以来、この阿弥陀仏を塩かいの阿弦陀というようになりましたとさ。
文治3年(1187)、草野太郎永平が源平含戦の折、摂津の難波津紳杜に祈願し、平家追討に功績をあげ筑後国在国司・押領使を授けられたことから、その神霊を勧請したものです。正殿に仁徳大皇、相殿に住吉宮と高良玉垂宮を祀っています。
社家には草野氏の栄華の頃が偲ばれる若宮八幡宮縁起ニ幅、宋風狛犬、正平六年銘鎧が保存仔されています。草野氏の繁栄を描いた縁起は、竹井城を中心とする一幅に街道の風俗や神事の様子が活き活きと描かれ、発心城を中心とする一幅に城内の武家屋敷やふもとを走る街道の賑わい、武者行列に満開の桜が彩りを添え、今も残る城跡に、縁起の情景を重ねることができます。
隔年9月、氏子をあげての御神幸祭は、今も古式豊かに 行われています。
若宮八幡宮の近くにある下馬場古墳は6世紀後半の古墳時代に築造された円墳で7世紀初頭までに築造された薬師下北古墳、同南古墳、前畑古墳などと合わせて、10基を超える草野装飾古墳を形成しています。また附近の諸古墳群とともに吉木古墳群をなし、その中心的存在でもあります。直径30m、高さ5mの円墳で、石室は全長12mにおよび、羨道・前室・後室からなるいわゆる複室の横穴式石室です。
羨道は両側壁の大部分と天井を持ち去られていますが、中に人ると幅約2.5m、奥行2mの前室があり、左壁には3個の同心円が描かれ、うち2個は小赤円を中心にして外へ順に青・赤・青・赤の美しい円を重ねています。右壁、奥壁にも同心円を見てとることができ、柱石の問を披けると後室があります。奥行き3.7m、高さ約2.8mの埋葬者を安置樹した中心のこの部屋の奥壁や天井は巨石積み上げられ、長い年月に薄れてかすかですが、同心円と三角形の他に舟のような形がひとつ見え、同心円のひとつには青が 残っています。赤は酸化鉄、青は岩粉を用いて古代の人々が描いた死者の世界が広がっています。墳丘からは円筒埴輪、外域からは肩にタスキをかけた女性埴輪が発見されています。
耳納山麓の森の中に、曹洞宗の山本山観興寺があります。 7世紀頃、草野太郎常門の創建と伝えられ、かつては 僧堂三十六坊の大寺院でした。ゆかしい山門の奥には老杉 がそびえ立ち、門をくぐって右手観音堂のわきにはカヤの' 木の大木が枝を広げ、78段の行段のまわりはツツジ、シャ クナゲとともに石仏が並んでいます。境内からは筑紫平野 を見渡すことができ、名刹善導寺の森も見えます。
草野永平が、土佐光信に描かせたと伝えられる絵巻 「絹本著色観興寺縁起」(二舳は鎌倉時代後期の制作にな る寺社縁起のひとつとして広く知られ、明治39年に国の 重要文化財に指定されました。縁起には「かやの木伝説」 とともに、文永11年(1274〕の蒙古襲来にあたり鎌倉幕府 の執権北条時宗が南九州諸国の御家人たちに援軍を命じた 折に、神代良忠が肥後、薩摩、日向、大隅などを博多へ赴 きやすいよう、舟で仕立てた神代浮橋などの様子が活き活 きと描かれています。
白雉年間といいますから、今から約干三百年の昔のこと です。草野太郎常門という狩をする若者が山本地方に住ん でいました。常門は三匹の名犬を持ち、月白、花白、鏡丸 と名付け毎日こよなく愛していました。狩に出かける時は いつもこの三匹におともをさせ、耳納の山々を、いのしし、 山猿、鳥などを求めて回っていました。
ある日、常門はいつものように霧たちこめる朝まだ暗い うちから、三匹の犬を従え、狩に出ました。日も真上に昇っ たところ、生い茂ったかん木の中に一頭のいのししを見つ け、追っていくうちに山深く分け入り、道に迷ってしまい 豊後国、石井の郷まで来てしまいました。常門は一夜の宿 を求めているうちに、由緒ありげな広々とした大きな館の あるところに出ました。虹の形をした門前に立ち、「狩り の途中道に迷い困っているものです。一夜の宿をお願いし ます」と大声でいいましたが屋敷は深閑と静まりかえり物 音ひとつしません。
しかたなく広い庭をとおり、屋敷の奥に進んでいくとか すかなあかりが見えました。近づくと、仏前で若い娘がと りつかれたように、ただひとりお経を読んでいます。常門 は不審に思い、娘にわけをたずねますと「わたしは玉姫 と申します。わたしの家は名高い日下部春里曲桶原の長者 で末の娘でございます。もとは千人の一族一門が住んでい ましたが、夜ごと悪鬼に連れ去られ、とうとう自分ひとり になりましたが、それも今夜かぎりです。頼る人もなく仏 の加護を得られんことを祈っていました」と話しました。
玉姫の嘆きに心ひかれた常門は、悪鬼をじっと待ち受け ます。真夜中になり、なまぐさい風が吹き荒れだし、突然 三匹の犬がけたたましく吠え始めると、眼を日、月のごと く光らせた悪鬼が四方をにらみ、玉姫を見つけるとやにわ に襲いかかろうとしました。常門は闇夜に光る眼光に向 け、満身の力で弓を張り矢を放ちますと、この世の終わり かと思えるほどの雷鳴が鳴り響き、悪鬼は消え去ってしま いました。夜がしらじらと明ける頃、点々としたてり落ち る血汐をたどると串川山の頂上にたどりつき、かやの大木 が昨夜の矢を受けて横たわっていました。その時、どこか ら浮かび出たのか僧の人影が呼びカ'けます。「この木は干 手観音の霊木である。お前は大変罪深いことをした。供養 おこたらず、その罪をつぐなうがよい」と告げると、風と ともに去り失せました。
常門は急ぎかえって玉姫にたずねると、「父がある夜の 夢にひとりの僧があらわれ、串川山の頂に千枝のかやの木 がある。これを伐って観音の像を刻めと告げられ、父はそ の木を伐りましたが、そのままに日を過ごし亡くなりまし た」と答えます。
これを聞いた常門は再び山に登り、かやの霊木に向かっ て玉姫の父の罪をわび、「国に帰って寺を建て、必ずこの 霊木を観音様に彫って安置しよう。願わくば大雨洪水の便 に乗じて、無事にこの大木をわが国に運ばせたまえ」と念 じて、玉姫をともなって山本に帰り夫妻となりました。そ のうちにわかに大雨が降りしきって水はとうとうとあふ れ朝方近くの村人たちが筑後川にかかってい神代浮き橋 に光り輝くかやの木がひっかかっているのをみつけ、大騒 ぎしていました。常門が来てみれば、まさしくあのかやの 大木でありました。常門はさっそく斧で木の枝を切り落と しましたところ、霊木から血がしたたりだし、驚いて勿体 ないといって斧を投げ捨てました。このことにちなむ地名 が善導寺町に勿体島として残っています。
常門はあらけずリのまま干手観昔として伽藍を建て普光 院と名付けて安置し朝なタなに供養しました。その後、玉 姫と夫婦になり、山本の里で大勢の子供たちに囲まれ余生 を安楽に送ったということです。それから500年の後、九 州に赤旗党が蜂起した時、常門の子孫である草野永平が弟 永信とともに源氏を助けて筑後在国司・押領使に任ぜられ た折、この千手観音様のおかげとして、この縁起を描かせ たと伝えられています。
観音堂の横に、悠々たる梢を揺らすカヤの木。瑞々しい葉が茂り、天空へ 伸ひ上がるその勢いは樹齢を感じさせない。
浅井の一本桜。樹齢100年ともいわれる高さ18m山桜。地元で大切に守られ 平成3年の台風によって幹が折れ、木の勢いも弱まった時も、地元の願いによって 回復作業がおこなわれ再び元気を取り戻した。毎年春には普通の桜より一週間遅れて 淡いピンクの花を咲かせる。
山本町宮園を山手に入ると、山ふところの静かな山寺千 光寺があります。建久3年(1192)、筑後国在在国国司草野永平 が千光国師(栄西禅師〕を招いて創建した、日本最古の禅寺 のひとつです。この栄西は、佐賀県背振山に茶の種をまき、 茶山をつくった茶の開祖でもあります。
門前には金木犀の大木があり、その木陰に梵鐘(福岡県 指定文化財)があります。栄枯盛衰を見つめてきたこの鐘 には、北朝の年号、永和3年(1377)と刻まれ、南朝の征西 将軍に閑係深いこの寺に・与に、北朝を名乗る鐘があるところに 複雑な当時の世相を知ることができる貴重な存在です。
後小松院から賜ったという「龍護山」の勅額がある、宝形 づくりの本常前を抜けて裏へまわると、筑後国主田中忠政 の供養塔があります。ここから階段をのぼると、苔むす玉 垣の中に、南北朝争乱期に活躍した征西将軍、懐良親王の 慕標と伝えられる宝キョウ印塔が見られ、そのまわりには草野 一門の供養塔もあり、戦乱の苦悩を語り合っているかのよ うです。裏山には親王の御陵墓といわれるものも残されて います。親王が亡くなったのは八代高田御所とされていま すが、いずれにせよ幼くして父後醍醐天皇のもとから遠く 離れて九州に下り、戦乱の苦闘に耐え続けた生涯は一大悲 劇であり、知る人のあわれを誘いました。
同じ戦乱の信濃路にあった兄君宗良親王におくられた懐良 親王の歌には、その悲しみがこめられています。
山本町柳坂の櫨並木からけしけし山路をのばりつめ ると永勝寺があり、日本三薬師の一つとして数えられ病に 効き目あらたかといわれています。創建天武天皇の白鳳 9年(680)といわれ、幾度か兵火にかかったとはいえ 勅願所として豪勢を極めていました。境内からは奈良時代 の瓦や平安〜鎌倉時代の陶製の経筒や青磁の鉢、南北朝期 の「柳坂山」の銘をもつ文字瓦などが出土しており、寺の 古い歴史とその降盛ぶりをしのばせます。
長い階段を上りつめた左右に文化年問の仁王石像が立ち 、煩悩をうも砕かんとするいかめしくも素朴な表情をみ てとれます。紅葉、銀杏の木々の中にある五百羅漢の石像 群が続いています。境内の玄圃梨は妙なかたちの実をつけ る珍しい古木で、市の天然記念物に指定され、その実は寺 の僧侶が蜂蜜と練り含わせて薬として使っていたというこ とです。