筑後は櫨の国です.どれほどの文化人、芸術家たちがそ の紅葉をを愛でたことでしょうか。作家作藤春夫は「筑後が 多くの芸術家を生んだのは櫨の紅葉にある」というよう に、秋から冬にかけての筑後の風物詩にとどまらず、櫨は 筑後の精神的・文化的ルーツのひとつといえます。
その美しい風最は 江戸中期からの農民のたゆまぬ努力の 結晶といえます。久留米藩では亨呆15年(1730)ころ、田主丸町 亀王村庄屋竹下周直が始めて櫨を栽培し、「松山櫨」という優れ た品種を生みました。久留米では国分村現在の国分町)の笠九 郎兵衛・西久留米村鞍打(現在の西町)の甚九郎らが、寛保2年 (1742)に植え、その後、天明年間には後原郡小郡村(現在の小郡市) の内山伊吉が「伊吉櫨」の名種を世に出し、江戸後期、筑後は櫨栽培 先進地となりました。これら櫨の普及には、櫨役方を置いて生産を 指導した藩の奨励策がありました.個人の山林や原野、荒れ果てた 田畑にも作付けが許され、藩は川堤・辿端などの空きに櫨の苗を植え、 農民に櫨の代金の三分の一を与えました。
上/11月初旬から紅葉が始まる。真紅の櫨並木。
右/これだけの櫨が伐採の難をのがれて残る例は少ない。
櫨は灯りとりの蝋を採るためだけでなく、蝋を採った絞 りかすが火力の強いことや火持ちのよいことから久留米緋 に欠かせない「藍」の保温のために不可欠なものでした。 櫨の実ちぎりは平地の櫨の木の場含は比較的に簡単で・櫨 の木の下にこざなどを敷いて、その上に櫨の実を落として いました。しかし山地や崖地は大変で、竹籠を肩にかけ、 荷の緒(ロープ)と鈎のついた竹竿を持って木に登り、柔ら かい櫨の枝を竿で手元まで引き寄せ、身体をロープでくく りつけその実をちぎりました。櫨の実は大きな籠につめて 天秤で担ぎますが、これが百斤1約(60kg)にもなり、
朝も早よからヨー ヤレー 櫨とりの一 歌がアーヨー 聞こえますぞえ一 ヤレー わが.里にヨー ヤレコイナー ドッコイショー 何の因果でヨー ヤレー 櫨とりを一習たアーヨー 櫨の小枝にヨー ヤレー 身をまかすヨー ヤレコイナードッコイショー やがて、西洋蝋におされてその役目を終え、多くの櫨の 木は切り倒される運命をたどりました。山本町の柳坂の櫨 並木は約1.1kmの問に約180本が今も生き続けています。 幹まわりは1m程あり県指定文化財(大然記念物)に指定さ れ、平成6年には「新・日本街路樹百景」にも選ばれ、寒 さの中、火炎のことき色で今でも多くの人々を魅了してい ます。 寒風にさらされながらの櫨の実ちぎリ。