第二章 古代の大城村
記録に残されるようになった時代に至っての史料は大体客観性をもっていますが、 大化改新に筑紫国を筑前筑後に二分し、「筑後国上管 御原・生葉・竹野・山本・御井・三潴・上妻・下妻・山門・三毛」(延喜式民部條)の郡名が見えます。
約一、〇〇〇年昔に編された倭名抄には、「筑後国 御井郡 節原・伴太・殖木・弓削・神代・加駄・大城・山家」の郡内九郷村をあげています。
倭名抄時代の郷村は大半現存していませんが、大城・加駄ともに一、〇〇〇年の歴史を経て今日に至っています。
大城
「大日本地名辞書」には「大城は今大城村に存す。伴太郷の西にして筑後川の北畔なり。大城は俗に『大木』に作る。」とありますが、村名「大城」については山本村観興寺縁起にゆかりがあると伝えています。 中世に至って大木氏が大城に據ったことが記録にありますから大城とも大木とも書いたのでしょう。 かかる古い歴史をもっているからこそ、明治二十二年の市町村制実施に際し、新しい行政村名として「大城」がとられたのでしょう。
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