倭名抄に大城とともにのせられている加駄は、現在稲数内にふくまれていますが、記録の上からは大城村 関係では最も古く見えます。即ち「福岡縣古代編年史」に「筑後御井郡加駄野(中略)大宝三年(七〇二)十月廿日 官施入」とありますから、奈良時代のことです。(約一、二五〇年昔) 加駄についてはその所在に定説がありませんが、潟カタ即ち低濕な沼沢地帯が開拓されたことからその村名が起ったもの でしょう。潟の渟名井や蚊田宮のことから察して現在稲数内になっている蚊田(加田)であることにまちがいないと 信じます。