稲数
筑後国史に稲員村館跡について次のように述べています。
「延暦二十一年(八〇六)稲員保只当村ニ館シ
代々居之。正應二年(一二八九)右京大夫良参上妻郡古賀村ニ転徒ス。其後赤司藏人藤原永雄来往シ数代ヲ経テ吉木
村ニ移ル。」また稲員家記に「保只(神管領大祝良麿裔孫)延暦二十一年三井郡稲員邑ノ館ニ移ル。因テ稲員氏ニ改
ム。保只三十六代右京大夫良参北條貞時同宣時ノ下知ニ因テ正應三年上妻郡上広川庄ニ転徒シ田戸七十町ヲ領ス。」とあります。
稲員氏は高良山の神管頭の職務を司り、玉垂命の裔孫にあたり約五百年間稲数に居館したわけです。古代より中世に
かけての高良山社領は広大なものですから神管頭としての稲員氏の勢力は推して知るべきです。
豊姫縁起によりますと御井郡の稲置をここに置いたことから村名を稲員というとあります。
稲置は古代の負租である稲を貯蔵する倉庫のことですから、当時の稲数は政治的に重要な位置にあったことを証するものでしょう。
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