赤司

久留米藩社方開基に「御井郡惣廟河北庄赤司やはた八幡宮、醍醐天皇治天延長貮年(九二四)草野大将様 やはた八幡宮を御勧請被成候(中略)当社数之義者五拾五末社と申伝候得共悉く退任仕(以下略)」とあり、筑後志 に「八幡宮 御井郡赤司村に在り、醍醐天皇の御宇延長二年草野氏山城国岩清水八幡宮を勧請し、社田十八町を附す と雖も秀吉公九州を征治の時没収せらる。慶長六年田中氏再興ありて供田一反を寄す。今廃せり。毎年十一月、初の 卯日の祭礼あり」と。これをもって赤司村の発生が一,〇〇〇年以上ということがうかがわれます。

筑後国史に赤司良積ヨシズミ塚をのせていますが、これは平安時代の赤司の政治的位置を証明する重要な資料です。 「村中石ノ本ト云地ニアリ。又良積と云フ(中略)自然石也。銘文分明ナラス。『寛延記云 元慶七癸卯年従五位下 左衛門権之佐藤良積為推問筑後国司殺害使 下向此地 建官符於龍ケ崎而居之 此石則良積之碑也。』 此誤也。是恐 ラクハ御酉ノ墳墓ナラン。(以下略)」

三代実録によりますと元慶七年(八八三)ときの筑後国司都朝臣御酉ミヤコノアソンオトリの館に百余人の盗賊が闇にまぎれて乱入し、国 司御酉を殺害し財物を掠奪した事件がありました。兵伏を発してこれを伐とうとするまもなく群盗は逃散してついに 捕えることができませんでした。ときの中央政府に於てはこの国司殺害事件の衝撃が大きく、ただちに中原長城を長 とし将兵を差遣して犯人捜索にあたらせましたが、結局駄目でした。続いて推問筑後国司殺害使として下向したのが 藤原良積でしたが、効を奏して事件発生五ヶ月後に漸く犯人をあげることができました。その主謀は国府の官吏であ る筑後椽藤原近茂であったのでただちに所刑されました。

矢野一貞が筑後国史にのべているように、良積石は藤原良積の墳墓でなく、国司都御酉の墳墓であるべきなのに、推 問殺害使ということを誤解して、殺害されたのは良積と言傳えたのが妥当でしょう。
国司殺害事件は単に群盗の財物略奪という表面のことばかりでなく、政治的な理由がひそんでいたことが三代実録に よって推察されます。即ち平安時代に及んで律令政治の弛緩はどうすることもできない状態に陥っていたとき、筑後 国司になった御酉は弛緩した地方政治の打開策として、すでに三十余年も履行されなくなっていた筑後の班田收授を 断行したのでした。しかしこれは官民ともに喜ぶところでなく、その結果がこうした事件となったのでした。

筑後国司の居館が赤司にあったということは、当時の赤司の筑後に於ける政治的位置を物語るもので、筑後国府が 当時赤司にあったことを証明することにもなりましょう。(福岡県郷土史による) 
藤原良積が官符を赤司龍ケ崎に建ててこれに寄ったことからも察せられます。 こうした重要な位置にあったからこそ、中世に至って草野氏は一族を赤司城にとどめたものでしょう。


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