古代の農村
大化の改新は日本の国家統一という劃期的な大事業で、古代天皇制国家の完成を意味しています。
奴隷制を根幹とした民族制度を打破しようとした大化改新は日本で最初の農地制度の改革ともいえるわけです。即ち
公地公民制をとった古代国家は班田收授を断行して六才以上の男は二反(今の二反四畝)女はその三分の二(いまの
一反六畝)をわかち与え、そのかわりに租庸調及び徭役・兵役そのほかの重い負担を負わされました。公民のうけと
る土地を口分田といい、死ねば国家が收めました。口分田を捨てて逃げることはできませんでした。古代国家は農業
生産を掌握して支配体制をととのえていったのです。この支配体制はやがて法令としてととのえられ七〇一年大宝令
及び大宝律として完成しました。律令政治がはじまるわけです。
大化改新とともに筑後に於ては筑後国司が任命され、筑後十郡の行政を管轄しました。郡には郡司をおき、郡の下に
里(のちに郷と改称)を置き行政の最末端としました。国司の役所国府は高良山下に置きました。こうして地方行政
が整備されるに至り、公地となった田畑は全国的に大耕地整備が行われ、條里制がしかれました。
筑後に於ける條里制の遺構は所々に現存して、当時の偉大な農地改革の構想がしのばれます。赤司内の小字である四ノ江・六ノ江・八
ノ江・十ノ江・十一等や稲数内の八ツ江・九ノ坪、仁王丸内八ツ江・四ノ坪等は條里区劃の当時の呼称が地名として
残ったもので、大城村に於ては赤司を中心にして條里制をしかれたものと推定されます。
公地公民制をかかげた古代国家も口分田不足を補うために大化改新後八十年、開墾田三世一身の法をとってこれを奨
励し、まもなく開墾田永世私有の法を出さずにはいられなくなって公地公民制の崩壊の兆候が見えはじめました。か
くして有力富裕な豪族や、寺社はさかんに開墾をすすめて私有地としました。
その後重税と徭役(労働力徴発)にさいなまれた公民はたえきれず口分田をすてて開墾主のもとに走り、奴隷の境遇
に甘んじるものも多く、天災地変も打続いて浮浪者国中にみつるというありさまでした。奈良時代後半から平安時代
初期にかけて、農村社会は大きく動揺しはじめ、公民のうちに有力な豪族との間に私的な隷属関係が成立しはじめ、
古代国家の支配が根底からくつがえされ始めました。
これらの私有地はやがて不輸不入の特権をにぎることによって、完全に古代国家の治外法権的な存在になりました。
不輸とは租税・徭役の免除であり、不入とは国司や検田使を入れないことです。不輸不入の私有地を荘園といいまし
た。
荘園の成立上地方豪族は中央の貴族・寺院に所領寄進という形をとることが多く中央の領家の支配下にありました。
藤原氏が中央にあって栄華をほこり得た経済的基礎は荘園にありました。しかし農村に於ける支配的な勢力は中央貴
族寺社にあるのでなく荘園の管理者である地方の領主又は名主(開墾主)にあったことは注目すべきことです。
平安時代中期に至ると全国的に荘園が成立して国領は著しく減少し、古代国家の権威は衰退の一路をたどりました。
さきにのべました筑後国司殺害事件が起ったのもこの時代です。
一般の農民はほとんど荘園の農奴という境遇に陥り、領主・名主との縦の従属関係に身動きできぬ程しばられつつ、零
細な耕地を経営し、収穫のほとんどが搾取され領主の自営田の耕作のために過重な労働が強制されました。
都市を中心に発展した古代国家は荘園の発生という矛盾のなかに没落の運命をたどらねばならなくなり、中世が荘園
すなわち農村から出発することになります。
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