第三章 中世の大城村古代国家はそのなかに成立した荘園制の矛盾のために没落の運命をたどらねばなりませんでした。この荘園制のな かに中世をになうところの武士が成長したのです。平安時代中期以降律令政治がゆるんで、社会が混乱し地方に群盗 が横行するようになると、地方の領主や荘官たちは、荘園の自衛上武力を備えました。領主を中心に郎党下人が武装 して萬一に備えました。これが武士の起りです。 地方にゆるぎないまでに成長した武士=領主層はやがてかれらの利益を代表するところの鎌倉幕府のもとに結集して武家政権を打ちたてました。草深い農村にあってこうして成長して きた武士階級は、恩顧と奉公につらなるいくつかの縦の段階の主従をつないだ社会組織をつくりあげました。前期封 建制度といわれる時代なのです。
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郡名 | 荘 園 名 |
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御井 |
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御原 |
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山本 |
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荘園時代は全国的に開墾事業がさかんであったことは、新開地を意味する空閑(古賀)・ 別府・名などが記録にたくさんのこっていることからもわかります。 河北庄赤司別府・高樋荘鵜木空閑などは当時の開墾村をさしたものですから古い歴史をもつ赤司村も、ありし日にはやはり開墾村であったわけです。 空賀(古賀)・別府などを姓にもつ一族はこうした開墾地に移住した人々でしょう。
河北荘弥益(山須)名・ニ王丸名・安永名・鯵坂荘五郎丸名などは、開墾主が自分の名を開墾田(名田)につけた村 をさすものです。名田をもつものは農民のうちでも富裕な自立農で名主ともよばれました。荘園の管理などにあたっ たのも名主層であり、武士化したのもこの層でした。名田が増加して領主化するものもあり、後に大名小名の呼称さえできていますし、近世にいって荘屋・名主などと呼ばれた村役人層にも関係があります。名主を中心に形成された 村落は例が多く、山須村など山須太郎左衛門の開発によって形成されたという記録があります。(豊姫縁起による)。
三井郡一帯の武士の起りについてのべますと、神代氏は高良山社領荘司(荘園の役人)より、三原氏・高橋氏は三 原荘の荘司より、またのちに筑後国守護に任ぜられた草野氏があります。 中世は宗教の時代ともいわれますが、高良山の存在を忘れることはできません。高良山の神寺田は最盛時には筑後一 円の外他国にもまたがり、七,三〇〇余町といわれ、その堂塔房舎は三,八六〇房という盛況でした。しかもこれらは不 輸不入の地で全く高良山座主の命令に動いていました。鎌倉時代初期、筑後国守護草野氏の所領御井・御原・山本に わたる三,〇〇〇町と比較して、高良山の勢力は推して知るべきです。高良山僧兵は座主の統制下にあって、武事につ とめ筑後一円を睥睨しました。広大な荘園と武備・宗教的権威を併せもった高良山は一大宗教豪族として、中世の筑 後の歴史に大きな足跡をのこしています。
北野天満宮は河北荘を社領として、多くの神人僧兵を有して、その勢力は頗る大きく、嘉慶二年赤司土佐入道が河北 荘の地頭となろうとしたところ、正治年間以来の頼朝の下知状ありとして将軍足利義満の親書を得ることに成功して、 これをしりぞけました。 源頼朝が政権を握るや、全国に守護・地頭を置き、中央貴族・寺社を本家とした地方荘園の勢力をそぐことにつとめ ました。筑後国守護に草野永平を任じ三井・御原・山本三郡内に三,〇〇〇町の所領を与え、やがて在国司押領使にも 任ぜられましたので、草野氏は筑後の実権を握りました。
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