記録に見る大城村

鎌倉時代から室町時代にかけての大城村のようすはただわずかに記録によって推定するよりほかにありません。 草野文書によりますと、文永十年(一二七三) 「河北郷内赤司別府・中島」 の村名を見ますから、赤司・中島は当 時草野氏の所領であったことがわかります。永正五年(一五〇八)の文書に草野太郎知行分として 「一所 大城八十 所 一所 赤司三十町。」 応永十九年(一四一二)の文書に「河北郷弥益(山須)名。」 永正六年の文書に「一所赤 司三十町并散在加之、一所矢益(山須)十二町、一所乙丸十二町、一所加田九町、一所乙吉六町、一所仁王丸十九町 。」 天文三年に「塚島一所八町 草野民部少輔。」天正三年に「千代島十町九段、大城。」 以上からみて、大城十 ヶ村の名ことごとく出で、しかも草野氏の所領とありますから、中世に於ては大城村は草野氏の勢力下にあったわけ です。所領は散在したらしく河北荘一円にわたるものではなかったようです。

大宰府神社文書に「半不輸。大城村 凶徒押領 観応三年(一三五一)。」「天満宮領筑後国二王丸(仁王丸)名。半不 輸大城村。応永二年(一三九五)。」とありますが、当時大宰府の社領が大城村一帯にも散在していたことがわかりま す。

さきにのべた嘉慶二年(一三八八)の赤司土佐入道と北野天満宮との地頭就任事件によってもわかるように、河北荘 一円に北野宮領もあったわけです。北野天満宮の中堂の神社と呼ばれる産土神をもつ千代島村など、北野宮と浅から ぬ関係があったものと推定されます。
吉野時代から室町時代にかけての大城村一帯は草野氏・北野天満宮・大宰府天満宮の三所領が錯そうし、三勢の圧力 が加わり、互に所領の経営維持を競ったことでしょう。

「半不輸大城村凶徒押領」の記録は、筑後川の戦時代のことですから、戦乱たえまなくこうした結果に陥ることも多 かったであろうと察せられます。 筑後川・大原合戦に関しては大城村一帯のことは具体的に記録にありませんが、菊地氏の軍勢が河北一帯に滞陣した ものと見られます。(木屋文書) 
草野氏の所領下にあって、征西将軍方にあった草野氏と去就を共にしたことでしよう。

そのころ三井郡一帯に地盤をもつ豪族として、草野・高橋・三原・筑紫・高良山等があげられますが、室町時代には 筑後一円の地方豪族の割據時代で、新旧勢力の消長によって、たえず変貌を続けていったであろうことは、「筑後将 士軍談〜上巻」によってうかがえます。そのうえ大友・龍造寺・島津等の隣国諸豪の筑後侵略がはじまり、複雑な関 係となってあわたヾしい興亡の絵巻がくりひろげられましたが、秀吉の九州平定によって長い戦乱に終止符が打たれ ました。


次 へ
戻 る
ホームへ