大城村に據った諸豪族
鎌倉時代末期より大城村を據点とした豪族に大木氏があります。大城藤太資綱より九代の末裔知光に至るまで
在城しましたが、知光に至り龍造寺隆信と交戦し大木城を孤守しました。
のち隆信の子政家に従属し大木氏は肥前瓜生野に移りました。明治の功臣と言われた大木喬任はその裔孫です(華族系譜)による。
古代の稲数村に於てのべた稲員氏も、鎌倉時代末期まで稲員村に在城し、正応三年(一二九〇)上妻郡に移住
していますから、約五〇〇年稲数に居たわけです。
その後稲数の居館跡には草野氏の一族赤司蔵人永雄が来住して、数代を経て吉木村に移っています。
合原氏蔵赤司系図によれば草野守永の二男永雄が赤司氏を称し赤司氏の祖先とあります。数代の裔孫兼重に至り、
高橋氏より所領を押領され草野氏の旧里吉木村に復帰したのです。
赤司に據った赤司氏については定説がありません。
筑後国史の赤司城跡の項をここに述べます。
「平城也、縦廿間、横十七間、二の丸廿三間、東南ニ池あリ、西北ニ廣七間深七尺ノ堀アリ。集 寛延記云、
赤司城ハ草野太郎家清嫡男在城。其後大友家臣上光駿河守野上左京守之。
田中氏ニ至テ、家臣田中左馬尉以下十九人守之。
今按ニ、此城赤司土佐入道ノ祖先築ク処ニハ非サルカ。豊西記ヲ按ニ、大永三年(一,五二三)大友ノ代将吉岡鑑定
・山下親俊筑後出張、直ニ留テ国中ノ政務ヲ行フ。蒲池物語云、大永五年城後越前守親興、野上右京亮鑑C来テ赤
司ノ城ヲ守ル、吉岡 山下等豊後ニ帰ル。
其後紀姓ノ赤司氏據之、永禄十二年赤司資C戦歿ス。家Cノ子赤司城ニ居ル事見所ナシ。天正年間ハ秋月ノ支城タ
ルコト物ニ見エタリ。最後左馬尉此城ニ来住シ遂ニ此ニ没ス。」
さきにのべた赤司氏系図によれば稲数村に居館した赤司兼重の数代の裔孫「成勝赤司ニ住ス」とあります。
豊姫縁起によれば草野守永の次男赤司蔵人永直が赤司に城を築いてここに據り、七代相続して永明に至り、天正年中
大友宗麟のために敗北し肥前に移ったことがのせてあります。
大友氏の筑後侵略の據点として赤司城は大永年間より天正年間まで約五十年を経ていますが、この間赤司氏は草野村
の居館に浪居していたもののようです。草場に據った赤司氏は紀姓を称えていますので、草野氏には関係がありませ
ん。
大友宗麟は切支丹を信じ、大友軍の寺社焼打は記録にありますが、豊姫縁起にも赤司八幡宮に火をかけ財宝社殿記録
ともに焼失したことがのせられています。 大城村一帯にも塚島村の善願時焼打、赤司村の妙光寺焼打等の伝説が残っ
ています。
戦国時代には地方にまだ勢力をとどめていた神社寺院も、戦乱の渦中にまきこまれて、兵火にかかることが多く、天
正年間神領三〇〇余町歩を維持していた高良山も、島津氏の北上により全山兵火にかかって蹂躙されました。また善
導寺も草野氏に内通して立花道雪を飯田村にたおそうとはかり、全山道雪のために焼打ちされました。
戦乱は単に地方豪族の盛衰興亡のみならず、農村の荒廃、農民の流離といういたましい結果がもたらされ、安住の地
を求めて流浪していく農民群も多かったことでしょう。大城村一帯の各氏族の来住伝説も多くこの時代にあることに
よってもうかがわれます。
天正十五年秀吉の九州平定に際しては秋月種実が赤司城を開渡して帰順していますので、当時赤司城は秋月氏に属
していたのでしょう。鎌倉時代初期より筑後に覇を唱えた草野氏は勢力衰えたりといえども筑後の一雄としてここに
四〇〇年、家Cに至って秀吉のために誘殺され家臣一同発心獄に自殺して滅亡しました。秀吉の軍勢が大城済を通過
するに際して発心獄によって兵を挙げ蜂須賀勢のために滅亡の運命となりました。草野氏滅亡に関しては巷間幾多の
伝説が語りつがれています。草野氏関係の諸民族の帰農も多かったことでしょう。
最後に赤司城に據ったのは筑後国主として柳河に任ぜられた田中吉政の家臣で、田中左馬尉以下十九人です。
田中左馬尉(允)については筑後国史系諸小伝に
「家老田中左馬允一万三千石 子孫今筑前黒田家ニ使ヘ 田中団右衛門ト号ス千石也」とあります。
田中氏は赤司城に入るや、八丁嶋より街区設定に堪能な者を集め、赤司新町の創設を行い、先例に随って市祭のこと
も制定しています。赤司の村落が城下町の遺構をもっていることはそのためです。田中氏の創建した赤司栄恩寺の文
書によりますと、田中氏は慶長七年より元和六年に至る十七年間在城したことがわかります。田中吉政の子忠政の代
に、田中氏は所領を没収され、随って赤司城も廃城となりました。城主左馬尉は赤司に於て歿し、その墓は栄恩寺に
あります。その後裔は赤司に居住して明治に至りました。
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