村落成立の原因

前期封建時代と呼ばれる中世の概観をのべましたが、戦国時代までに大城村を構成する十ヶ 村落は現在の位置に村落形成を終っていることがわかります。
近世にみる村落がどうして形成されたかその成立原因について小野武夫博士説をかかげて大城村一帯の村落の発生を さぐる手がかりにしましょう。

  (一)古代成立村     倭名抄にのっている郷村などで口分田時代あるいは古墳時代からの村落。 (二)名田ミョウデン百姓村     荘園時代の開墾村で名主を中心に形成された村落。 (三)豪族屋敷村     荘園時代から中世にかけて領主屋敷を中心に発生し、     領主に隷属した村落。 (四)寺百姓村     荘園時代から中世にかけて寺社領を耕作する寺社に隷属した村落。 (五)隠遁イントン百姓村     零落した領主が主従もろとも山間僻地に移住して土着した村落。 (六)新田開発村     近世(徳川時代)に開発された村落。

大城村を構成する自然村十ヶ村落の成立を探求してみますと、先にのべた倭名抄郷村の大城・加駄(加田)は古 代成立村というべく、仁王丸・山須(弥益)・乙丸・乙吉などは名田百姓村・赤司も赤司別府の記録から荘園時代に は開墾村であったのでしょうが後豪族の據点となっていますから、稲数・大城・仁王丸とともに豪族屋敷村ともいう べきでしょうか。赤司・稲数・仁王丸等の村落をめぐる堀濠は豪族屋敷村の名残をとどめているものとも見れましょ う。

千代島・塚島・中島・島(元大城村内の一名)はその名のごとくかつての筑後川敷の荒地を開墾した村落であり 筑後川と特にふかい関係をもっているものです。北野天満宮の中堂の神社を産土神としてもっている千代島は北野天 満宮とふかい関係をもっていたものと推定されますが、北野天満宮社領の寺百姓村とも見れるのではないかと思われ ます。北野宮社領・太宰府社領も大城村一帯に散在していたのですから、寺百姓村的な発生をもつ村落もあるはずで す。

大城村内の一名である船端・土居・日比生は現在相当の戸数人口をもつ村落ですが、近世に入っても独立村と見な されず大城内の小字にすぎませんでした。これは村落発生の歴史の新しさを証明するものとも見れます。日比生ヒルオは別 として船端・土居は近世に入っての新田開発村と見るべき幾多の資料があります。
三井郡一帯の村落についても以上のことが適用できるでしょう。歴史的にみて筑後川沿岸の村落の成立時代は中世と みてさしつかいないようです。例外をのぞいて。

これらの村落の構造からみても、成立過程はほぼ推定されます。村落の中心をなすものがあるかないか、屋敷の分布 状態、産土神の結構、耕地と村落との関係、寺社と村落の関係、氏族分布の状態等いろんな分野からの検討があるこ とでしょう。


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