中世の農村

さきにのべた荘園は一定の地域内に耕地・山林・原野・灌漑方面などをふくむ地方経済の一単位で あって封鎖的な傾向をもっていました。当時の農民(荘民)は農地や生産手段に対して何らの権利もなく、自分の食料 として収穫物の一部が与えられるばかりで、すべて領主に搾取されていました。いわば奴隷的な存在でした。しかし 農業技術が進歩し、生産力が高まってくると、領主たちは小農経営の有利性を知って、この奴隷的な農民たちに農具 を与え土地の占有を認めて、今までの奴隷的な位置から解放し、自らは地代を搾取する地主的なものになっていきま した。これは大きな変化でした。

鎌倉時代には農村に名主(武士)・作人・下作人等の身分の分化がすすんでいます。当時の農民の耕作面積は二十三反 から一町二十三反で零細なものでした。そのうえ年貢(地代)として収穫の六〇〜七〇%、それに領主の自営田の耕作 に対しての労働提供や警備、雑役などの重い負担がかかってきましたので、作人(農民)の手許に残るものはわずか でした。まして下作人などは収穫の八〇〜九〇%は搾取されたといわれます。

鎌倉幕府につヾく室町幕府は守護大名の連合政権というかたちで構成されましたので、統制がとれにくく、大名間 の勢力争いに将軍もまきぞえを食って、平和な時が続きませんでした。地方の守護、地頭は大名化して自分の勢力の 拡大をはかり、実力本位の下克上の時代にはいりましたが、応仁の乱以後戦国時代はまさにこの一語につきるといっ てもいいようです。

室町時代になって大名領が形成されていくころ、領主はつとめて農業の発達に努力して勢力の拡充をはかりました。 かくして、農業はかなりの進歩を見せています。二毛作の普及・農具の進歩改良・新作物の栽培(草棉・菜種・茶・ 大豆等)・肥料に於ける刈敷の普及・治水技術の進歩・開墾事業・灌漑用水の共同菅理等〜生産面においても著し い増加をみました。 農業技術の進歩・生産力の増加につれて、実際に耕地ではたらく農民の力も強まり、領主・名主のもとに不自由な立 場にあった農民の地位をぐっと高める方向に動いていきました。領主の自営田の耕作に労働を提供することも室町末 期には姿を消して地代(貢租)にくり入れられ、領主・名主は完全に地主化しました。

室町末期は天災飢饉がたびたび起り、ただでさえ生苦しい農民たちは困窮の果、一村一郷団結して領主に負担軽減 を強訴しました。また集団的に逃亡して領主に致命的な打撃をあたえるという方法をとって減免要求の手段としまし た。これを逃散チョウサンといいます。
それでも救われないときは武器をとって集団的に反抗を続けました。これを土一揆ドイッキといいます。 一揆は応永三十三年(一四二六)の近江の徳政一揆をきっかけに、土一揆・一向一揆と近畿北陸一円にたびた びくりかえされ、幕府大名を震え上らせました。 強訴・逃散・一揆は農民から生きる権利をさえ奪おうとする支配層に対して、彼ら農民の抗議に外ならず、日本に於 てはじめて農民の力で生産を守るために戦ったものだともいえます。

戦乱・一揆等によって孤立的・封建的であった荘園はほとんど崩壊して、地縁的な郷村制がそれにかわって成長して きました。一揆等によって広汎な農民の一つの目的への結合を見るとき、古い荘園という殻を破っていくのは当然で しょう。灌漑用水問題を例にとってみても古い荘園区劃ではどうしても解決できない大きな規模となるにつれて、用 水の共同の利害関係をともにした地域が結合していきます。 そしてこのひろい結合のなかにも郷村という小単位があちらこちらに出来て、農民は土地を守護する産土神を中心に 一村共同の利益を守ろうとする動きになり、自治的な団結を一層かたくしていきました。

当時神社は村民を結合する要ともなって、村の重要な行事は寄合は社前で行われるのを常とし、産土神に誓って規約もつくられるということが 多いのでした。寛政年間久留米藩庄屋起請文もこの形式をもったものです。 産土神の祭祀も重要な村行事であったわけですが、現在各村落の産土神の宮座の起源も多くこの時代にあるのです。 近畿地方ではソウとか講とかよばれる自治組織ができ、村オキテが定められ寄合をもうけて村内全般のことを村民の自治に よって運営し、軽度の自治裁判さえ行われました。

庶民の宗教としての真宗派の地方進出は室町中期ごろから著しくなりましたが、村落への進出に際し、まず名主層を 帰信させ、一村一郷ずつ一挙に門徒として獲得していきました。また農民は名主出身の真宗僧侶・有力門徒を中心に 講的結合を固くしていきました。 三井郡の寺院七十三寺のうち八〇%の六十三寺が室町中期より近世初期にかけて創建され、しかも六十三寺のうち五十五寺は 真宗派であることからして、当時の真宗教団のめざましい地方進出がうかがわれます。かくして古代より国分寺及び 高良山を中心に隆盛をきわめた古代佛教も、新佛教にその座をゆずらざるを得なくなり、古い歴史をもつ古刹名刹も 衰微の運命をたどることになります。 当時大城村関係に真宗派五寺が相継いで開基されています。日比生の光蓮寺(寛正元年)をはじめとして、仁王丸の 眞教寺(永正四年)・法円寺(天文元年)・赤司の栄恩寺(慶長二年)・稲数の光福寺(慶長四年)ですが、開基は いずれも当時の名主層です。門徒の分布状態や寺院と村落との関係によっても、当時の村落形式の過程をうかがうこ とができるでしょう。同族的結合を中心にした農村社会に、宗教的講的な結合をもたらした真宗派の進出は近世の村 落の性格を形成する一要素ともなったことでしょう。


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