第四章 近世の大城村
秀吉の検地
秀吉が天下を平定してまず手をつけたのは全国の検地でした。
今まで各領内でまちまちであった土地関係や面積尺度法を全国に統一しましたので、農地制度・租税制度も統一され
ました。徳川氏は豊臣氏に引続いて検地を完了しました。
筑後の検地のようすは、問注所文書に「一,五百貮石五斗 筑後国三井郡におう丸村、塚島村、此度検地之上扶助畢
全可領地候也 小早川秀俊。文禄(一五九六)四年十二月朔日」とあることによってわかります。
秀吉はまず一地一作人の原則によって「作職」即ち耕作権を農民に保証するとともに、農民を土地にしばりつけ、
売買、質入を禁じ、検地帳をつくって職業や移住の自由を奪いました。長い間の農民の切実な耕地要求をいれひとま
ず封建的自営農として認めながら、ほかならぬ封建的自営農として支配しようとしたのです。検地は強力な圧力をも
って断行され、従わざるものは一村一郷薙切りをも辞せずとされました。かくして検地は封建的支配の基礎をうち立
てたのでした。農民は土地と一体のものとして領主の領有物とされ、大名が国替えをする際にも検地帳にのせられた
百姓は残留すべきことを定めています。
このように土地にしばりつけられて、ひたすら領主に奉る貢租を生産すべく一年中土にまみれて働かねばならぬ運命
こそ後期封建制といわれる近世の農民の性格を規定しました。農民を永久に土地にしばりつける目的をもってなされ
たのが秀吉の刀狩りです。戦国の世には槍とって運よくば一城の主ともなり得た兵農不分離の時代もありましたが、
農村から武士を排除し農民だけの農村にしようとする政策によって武士は城下に集中させられ、身分的にも武士と農
民とははっきりわけられました。戦国の変動期に没落した地方の小領主・名主層も農民の地位に引下げられましたが
これらの層から近世の庄屋・名主等の村役人が任ぜられ、農村に於ける指導的地位を保ったようです。
検地帳にのせられた農民は本百姓・高請百姓といわれ、領主への貢租その他の義務を果さなければなりませんでした
し、領主にとって本百姓は重要な存在でしたから、その対策には特に留意しました。
また検地帳にのせられない帳はずれの農民が相当あったことが諸記録にありますが、これは地方の小領主が本百姓の
身分に編入され、かっての被官・下人・小作人であったものが、以前どおりに本百姓たる元小領主に隷属して近世に
入ったものです。近世に被官百姓とか名子百姓とかよばれたもので、帳外の民は直接領主との関係はないわけです。
近畿を中心とした地方で、はやく自治的な農村へのうごきを見せた村落は、比較的に本百姓を主体として、村落も
等質的であり民主的な傾向をもっていますが、辺境の地には中世的なものを多く残しつつ近世に入った村落が多いよ
うです。
三井郡一帯ではこの点で本百姓を主としたものであり、大城村関係には中世の名残をとどめて近世に入った村落は
少ないようです。
農民の貢租を確保する手段として、村の連帯責任性が強制され、このために戦国のころ農民の自治的な組織として
発達してきた「惣」「講」も、その自主性をうばわれ、上からの命令を遵奉する機関と化しました。村の連帯責任制
を完全に遂行するために、更に村内に小範囲の連帯責任の単位がつくられました。五人組・十人組とか称せられるも
のがそれです。
久留米藩では五人組は組織されたもようですが、具体的な面についての資料がありません。
こうした連帯責任のきずなによってしめつけられた上、更に農民の生活に対しては極端な生活の切下げが要求されま
した。高率の貢租を完全に搾取するためには、農民の生活水準をできるだけ低い状態におくことが必要だったわけで
す。久留米藩に於ても倹約令はしばしば繰返され、衣食住全般にわたる細部までの制限をもってのぞんでいます。
幕藩制が成立する初期の農村政策は大体以上のようなありさまでしたが、「百姓どもは死なぬように生きぬように
合点致し收納申附くるように」という一言が施政者の根本方針だったといえます。
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